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おもちゃ屋の娘 さくらトイス55年のお話

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おもちゃ屋「さくらトイス」の2代目社長を務めた私が、おもちゃ屋の思い出話、懐かしいおもちゃのことをつづっていきます。
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平成14年、おもちゃのネット販売は難しい…と実感

この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。 現在、多くの方がネットショッピングを利用していると思います。 さくらトイスがネット販売を始めたのは、平成14(2002)年のことでした。 今回は、その頃の時代背景や、私が感じたことを書いていきます。 おもちゃ販売店の多様化と、価格破壊 平成14(2002)年ごろ、カメラの価格競争、家電製品の価格競争がとうとう玩具業界まで忍び寄り、玩具売場の拡大が始まりまし

平成10年、水戸駅北口にあった丸井水戸店に出店

この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。 東京・神奈川・千葉を中心に展開していた「さくらトイス」ですが、平成10年(1998年)、茨城県に初めて出店しました。 今回は、その頃のお話です。 平成10年、丸井水戸店に出店 「さくらトイス」水戸店の場所は水戸の駅前の丸井水戸店です。 丸井水戸店は、当時、水戸駅の北口にありました(2018年に閉店)。 ちなみに、水戸駅北口のデッキは、水戸黄門、助さん、格

平成9年、3日間で1万個のたまごっちが完売!丸井溝口店

この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。 前回の記事では、平成元年から平成6年ごろ、私がさくらトイスの副社長として、本格的にお店に関わるようになった頃のことを書きました。 その後の平成8(1996年)に父がさくらトイスの会長に、私は社長になりました。 このころは、おもちゃ業界に女の社長は少なく、メーカーのピープル、業界新聞のトイズサービス、専門店の私と3人だけでした。 会社ではやりがいも大きくなりま

昭和63年、国分寺丸井店は「駅のそば」ではなく「駅の上」!

この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。 前回の記事では、昭和58年、59年と、ショッピングセンター丸井に出店が続いた頃のお話でした。 今回も、引き続き丸井への出店のお話です。国分寺と草加の丸井は現在もありますが、上の写真は、40年ほど前の懐かしいものをお借りしました。(業界紙トイジャーナル掲載のもの) 昭和61年、中野丸井(本店)に出店 昭和61(1986)年、中野丸井への出店依頼がありました。

昭和58年、丸井におもちゃ売り場を!所沢丸井に出店

この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。 さくらトイスは、昭和50年代半ば(1980年ごろ)まで、スーパーのダイエーや西友、また池袋サンシャインをはじめとするショッピングセンターなどに何店舗もテナント出店をしてきました。 続いて出店の依頼があったのは、丸井です。 「丸井におもちゃ屋さん?」と意外に思う方もいるかもしれませんね。 今回は、その頃のお話です。 昭和58年、初の丸井出店は所沢店 昭和58

昭和56、57年 所沢ダイエー、本厚木&立川駅ビルに出店

この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。 昭和53年、池袋にオープンしたサンシャインに2店舗を出店したさくらトイスには、その後も出店の依頼が続きました。昭和57年には初めて、駅ビルのショッピングセンターへの出店もありました。 今回はその頃のお話です。 昭和56年、ダイエー所沢店は電子ゲームを集めた店に 昭和56(1981)年にダイエーから出店の話がきました。 埼玉県所沢市にスーパーダイエーができる

昭和54年、サンシャインシティ「こどもの町」に都内最大規模のおもちゃ屋を開店

前回の記事では、私の父が経営し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」が、昭和53年(1978年)にオープンしたサンシャインシティに出店したことを書きました。 今回は、その続きのお話です。 サンシャインシティ文化会館地下の「こどもの町」 サンシャインシティは、全ての施設や店が同時に開いたわけではなく、1年遅れの昭和54年に文化会館がオープンしました。 さくらトイスはその地下1階にも店を持ちました。 元々サンシャインシティの企画で、「こどもの町」という区画をB

昭和46年、石神井公園の西友、戸塚のダイエーなど、テナント出店が続く

1970年代初めに大流行したおもちゃと言えば、アメリカンクラッカーです。 金属のリングに結ばれたひもの先に、プラスチック製のボールがついていて、それを上下にカチカチ打ち鳴らして遊びます。 当時は「カチカチクラッカー」と言う名で販売していたと思います。 あまりの人気で、問屋さんでも品切れ状態でした。 ある日、おもちゃ屋を経営していた父がどこからか、アメリカンクラッカーの玉・ひも・取手のリング・ビニール袋・印刷されたヘッダー厚紙を持ってきました。 「どうしたの?」と聞いたら、メ

昭和53年、オープンしたばかりのサンシャインシティに出店

昭和50年ごろ、私の父が経営するおもちゃ屋「さくらトイス」は、千葉や埼玉の各地に店舗を広げていました。 昭和53年には、現在まで続く大型複合施設、池袋のサンシャインシティに出店。東京だけでなく、各地から多くのお客様が訪れる施設ですので、おもちゃ屋があったことを覚えている方もいらっしゃるかもしれませんね。 当時流行した商品と言えば、「スライム」です。緑のドロドロした感触が何とも言えず、昭和53年に大ヒット。当時、私が店長をしていたファンシーショップ「トント」でも扱いました。

昭和50年頃その②所沢&市原のショッピングセンター・ポポロに出店

昭和50年ごろは、おもちゃ屋の娘として生まれ育った私が、本格的に父の経営するおもちゃ屋「さくらトイス」にかかわるようになった時期です。 と言っても、はじめはおもちゃ屋になるつもりはありませんでした。 私は芝居がやりたくて、大学は演劇科に通っていました。 両親は女優になるのを反対していて、「大学は演劇科に行ってもよいが、卒業したら家を継ぐ」という約束でした。 そんな事もあり、父は私が卒業したら芝居の道に入らぬように、私の仕事として、かわいいぬいぐるみやキャラクター文具・雑貨

昭和50年頃その①元ボウリング場のショッピングセンターにテナント出店

1970年代には、今も販売されているロングセラーのおもちゃが続々と発売されました。 例えば、73年に盤ゲーム「オセロ」、74年には「モンチッチ」75年には「黒ひげ危機一発」などです。 また、「超合金のマジンガーZ」が流行ったのもこの頃でした。 その頃、私の父が経営していたおもちゃ屋「さくらトイス」は、引き続きスーパーやショッピングセンターなどのテナント出店が続いていました。 今回も1970年代の思い出話です。 昭和48年、千葉県初となる京成大久保に出店 昭和48(19

昭和45年、関東初のダイエー(八王子店)のおもちゃ売り場として出店

高度経済成長期だった昭和40年代のはじめ、おもちゃもよく売れていました。 「リカちゃん」や「人生ゲーム」など、今でも親しまれているおもちゃが誕生した時代でもあります。 (写真は、2014年開催の「ドール・カルチャー展」にて撮影) その頃、私は小学校高学年でした。ある日、父が私に 「お前はおもちゃ屋の娘で、学校の友達の間で恥ずかしくないか?」 と聞いてきました。私は 「どうして?みんなおもちゃ屋と知って、うらやましがるよ!」 と言ったら父が「そうか」と言って笑っていました。

昭和40年、おもちゃ屋店内にレーシングサーキットが誕生

1960年代の日本の大ニュースと言えば、なんといっても東京オリンピックです。 その頃、私の父が経営するおもちゃ屋「さくらトイス」は、横田基地の目の前である福生市、国道16号線沿いへ移転オープンしました。 上の写真は、昭和41年(1966)年頃の「さくらトイス」です。向かいの駐車場には、左ハンドルの車が停まっていますね。 また、屋根の上には動物や乗り物などのモチーフが飾られた楽しい店構えでした。 そして、店内には、レーシングカーを走らせることができる大きなコースがあり、評判を

昭和35年 アメリカ文化の街、福生で見たクリスマス、ハロウィーン

東京オリンピックを控えた昭和35(1960)年、私の父が原宿に開いたおもちゃ屋「さくらトイス」は、横田基地の目の前である福生市、国道16号線沿いへ移転オープンしました。 福生と言えば、基地の外にも「アメリカンハウス」が多く、アメリカさながらのお店が並ぶことで有名な地域ですね。 アメリカンハウスは、かつての米軍居住地でしたが、駐在兵の減少後は日本人が住むようになり、小説家の村上龍さん、ミュージシャンの大滝詠一さんなど数々のアーティストが暮らしてたことでも知られています。