『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』清水潔

 いくつか思うところがあって。そもそもジャーナリズムにほとんどと言っていいほど興味が湧いていなかったんだけれども、その理由の一端にスクープの価値の問題があった。その問題意識に間接的に答えを出してくれたのが本書だった。放っておいても時間が経てば答えが出るものをできるだけ早く報じることをエゴスクープと呼んで、アメリカやジャーナリズム研究においては価値のないものとみなされているらしい。その一方で調査報道というような、公的機関や公式発表と実際に起こった事象との齟齬を発見できるようなものこそがスクープとして評価される。

 その意味で本書は調査報道の教科書とも評されていて、社会的弱者のいわゆる「小さな声」を聴くということが強調されていた。それこそがジャーナリズムだというように。ただ、個人的にはやはりジャーナリズムにはむず痒くなる。作者は社会の理不尽や体制側の隠蔽体質を明らかにし、被害者の苦痛を映し出していく。作中で事件事故報道の意義として、同じような事件を2度と繰り返さないようにということだという。上記の文章が続きながら常に執拗に野放しにされている殺人犯を糾弾する文章が紡がれていく。

 そしてあとがきであくまでもさらっと作者自身が娘を事故で亡くしていることが明らかにされる。そこに作者が幼い命を5人も弄んだ可能性のある殺人犯をひたすらに糾弾する理由があるように感じた。その動機はもちろん腑に落ちるものだし、心血を注いで事件事故の理不尽を追いかける熱意につながるだろう。

 一方でジャーナリズムとはなんなのかという点に立ち戻った時に、私にはこれを社会に対する復讐だと感じて仕方がなかった。そしてそれはジャーナリズムである必要があるのかと。警察官になることが何よりも直接的な解決になるのではないかと感じてしまった。

 本書では警察や検察の隠蔽体質や官公庁主導の報道姿勢に対しての問題提起がなされている。しかし読み進めれば進めるほど作者の本質的な問題意識は現在でも犯人が捕まっていないという点に向けられる。社会問題の解決や被害者の声を届けることはあくまでも手段になっていて最終的に咎人には罰をといった論調を見ると、ジャーナリズムの名の下に正義を語る違和感が拭えなかった。結局のところジャーナリズムという言葉の中の中途半端な正義観が個人的にしっくりきていないのだろう。意義を新たに認識するとともに、自分の中の言葉にできないで抱えている不条理を浮き彫りにしただけであった。

 それとこの本のマーケティングについても少しだけ触れておきたい。この本は「文庫X」としてタイトルを隠した状態で売られたことによって話題となり、ノンフィクションとしては類を見ない勢いで売れていった。近年、タイトルを隠して売るような形態は多くの書店やショップで行われており、そう物珍しいようなものではないように思える。そんな中でこの作品がそこまでの効果を獲得したのはひとえにこのノンフィクションの性質によるものであろう。この広告手法を行った盛岡市のさわや書店フェザン店の長江さんも述べているように、このタイトルは正直に言ってとっつきづらさを感じる。内容はただの時系列というわけではなく読みやすい構成に組み替えられており、平易な文章を用いて綴られている。そして何よりも熱量がある。しかしそういった読了後の印象とタイトルや表紙から感じるイメージは乖離しているように思う。そのギャップこそが文庫Xとして表紙やタイトルを隠したことによる効果につながったのだろう。作品の質ももちろんだが、読み終わった際に、これは確かに普通では自分は手に取らなかっただろうという共感するような気持ちになったからこそ、周りにも勧めやすく口コミでも広がっていたんだと思う。言い換えればなんでもかんでも隠して売ればいいというわけでもないということになり、本のマーケティングの難しさを知ったような気がした。

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