『春と盆暗』熊倉献

 世界の見え方を変えてくれるようなそんな作品。接客中に手をぐーぱーしている先輩に何をしているのか尋ねると接客の中でストレスがたまると想像の中で「月面に向かって標識を投げつけている」のだという。その投げつける動作の表れが後ろにやった手のぐーぱーだと。意味がわからない。けれどストレス発散の方法としてなんとなくわかってしまう気もする。言われなければわからなかったけれど、言われてしまえばなんとなくわかる。そういった一言で世界の見え方が変わってしまうような体験が大好きで、その視点を得るために物語に触れ、人と話しているようなところがある。この短編集の中では日常生活の中で気づかない自分自身の中に隠れた感性を具現化してくれるような変わった人物たちがこれでもかというくらいに出てくる。

 前述した先輩のぐーぱーを止めるために主人公は自分の手を差し出す。すると握力が強いと返す先輩に対して、カルシウムを取ると毅然と答える主人公。問題の解決策としてはどこまでもズレている。それでもその心が通じ合っているのは確かだ。彼らはどこまでも真剣で相手のことを思いやった上でコミュニケーションを取っている。だからこそ、その告白は胸を打つ。わからないけど、わかる。この感覚が明日からの人生を少しだけ開けたものにしてくれるような気がする。

 彼女らの目を通せば月面と眼球は似ているという。眼窩にすっぽりはまりそうだと。そんなこと思いもしなかった。そんなこと言われてもわからないと言ってしまうのは簡単だ。それでもその一言を言われたあとで月を見ると何を思うだろうか。その感性が愛おしい。自分の見えない世界がそこにあって、その一端に触れた瞬間の世界が広がる感覚。日常生活の延長にありながら何か決定的な分断がある。この作品を読んで自分と世界の輪郭が溶けるような体験を。

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