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人を〈嫌う〉ということ

私にも嫌いな人くらいいる。

いや、むしろ人の好き嫌いが激しそうと思われているかもしれない。
実際、激しいかもしれない。

ただ、予め断っておくが、私はその人(たち)のことは嫌いでも、だからといって「不幸になれ」とか、「階段から落ちろ」とか、「タンスの隅に足の小指を強打しろ」とかは1ピコグラムも思っていない。

むしろ、私とは無関係の世界で、どうぞ幸せに暮らして欲しいと、心から、本当に心から願っている。

:これはそこまで他人、というか〈私が嫌いなその人〉に興味を持てないからかもしれないし、そもそも「嫌い」の定義が人と異なるのかもしれない。実際、自分や自分の大切な人が「そいつ」に何かされたりしたらその人の不幸を願ったり、”ケジメ”をつけにいくとは思うが、果たしてそれは「嫌い」という感情で示すことなのかどうかについては、私は懐疑的である。:

「好きの反対は無関心」とはよくいったもので、

「嫌いである」という感情をもっている時点で、その人に関心を寄せていることになる。

結果、私の感情の、ある一部分を私が嫌っている「その人」が占有していることであり、それはそれで私にとっては苦痛である。

冒頭で「私とは無関係の世界で、どうぞ幸せに暮らして欲しいと、心から、本当に心から願っている」と述べたのは、そういう意味でもある。

つまり、私はその人(たち)のことが嫌いであり、嫌いであるがゆえに、その人に対する〈憎しみ〉すらも自分の脳の(貴重な)一部分を占有していることに、そしてそれを許している自分自身に対して許せないのである。

そうであるから、自分の前から去っていただき、どうせなら幸せに暮らしてもらったほうが、今後の関わり(の可能性)も絶てるということである。世の中の幸福の総量が増加するのは、大変よろしいことである。

私は、私の、この固有な自分の生の一部を無許可で「ストーリー」に回収されるのが本当に嫌なのだと思う。

愚痴や相談ごとを聞いてもらって、その上でウンウンと頷いてもらえたり、有益と思われる言葉を貰ったり、元気がでるように励ましてもらったり、そういう人が自分の周りにいてくれるのは本当にありがたいことであって、自分もその人たちに対しては頼るに値する人でありたいと思ってはいる。

しかし、逆にそうではない人には、「あなたってこういう人でしょ」「わかるわかるつまりはこういうことでしょ」と〈要約〉されたり、その人のナラティヴにとりこまれそうになったりしたとき、他ならぬ私の固有の生の一部が踏みにじられたような気がして、我慢がならなくなる。それは〈共感〉ではなく〈回収〉だからだ。

思えば、連載をするといって数ヶ月棚上げ状態になっている(本当にスイマセン)「らしさへの抵抗」シリーズもそんなところから発しているのかもしれない。

:「らしさへの抵抗」シリーズについては、この2月中に複数本の記事をアップする予定で現在準備を進めている。おもえば半年以上棚上げしており、(この世に実在するかは別として)楽しみにしていただいている方には大変申し訳ない気持ちでいっぱいである。:

加えて、私は、自分自身がそうされるのを拒否するのと同時に、自分自身が他人の固有の生の一部を踏みにじることも拒否する。

さらに、他人が、別の他人にそこような扱いを受けることも併せて拒否する。

目の前にいるのが家族であろうと受講生であろうと同僚であろうと、

共感が回収にならないように、目の前の相手の固有の感情をしっかり尊重して、話したい。


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