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遺跡を喰らう木、人間の驕り

友だちがカンボジアに来てくれた。嬉しすぎていっぱいしゃべったので、その中で考えたことを写真とともにサクっと書きたい。

まずは私が住むコンポントム州のサンボープレイクック遺跡。おととし世界遺産になったばかりで、まだまだ観光客も少ない穴場だ。

次は山の上にある寺院、プレアビヒア。タイとの国境付近に位置し、この一帯をめぐる衝突が2011年にあったばかりでまだ軍人もいる。でもそんな背景とは裏腹に、地面以外どこを向いても空が広がってるという清々しい場所だった。
ちなみに辿り着くには、スキー場なら上級者レベルであろう急な坂道をトラクターかバイクに乗せられてグイグイ登る。そのスリルも一つのエンターテイメントかもしれない。

そしてそして、アンコールワット。

外観が有名だが壁の彫刻もものすごい。

3つ回わると歴史も感じられてなかなかオツなである。建てられたのが上から順番に7世紀、9世紀、12世紀とバラバラなので、素材や造りが違ったりサンボーの様式がアンコールで見られたりと面白い。

でもでも1番気に入ったのは、世界遺産ではない遺跡、ベンメリア。「天空の城ラピュタ」のモデルとも言われているけれど、ラピュタ公開時にはまだ無名の遺跡だったらしく噂でしかないとか。でも確かに「バルス!」と叫びたくなる場所だ。

写真を見返してあのちょっと冷たい空気を思い出し、ゾクゾクする。なにより遺跡が木に食い崩されてるのがたまらない。異常性癖かもしれないが、桜は散りゆくからこそ美しいという感性と同じな気もする。

1000年近く昔の遺跡と最近作られた橋や歩道、そして時間を超えて生きる木々。そのフュージョンが放つ凄みは来る人を圧倒させてはばからない。

しかし一方で、遺跡はカンボジア史を知るための大切な手がかり。後世へも残さねばなるまい。壊れゆく美しさと歴史的価値の保全。矛盾する正義。

そんなことを思いながら歩く私を、雄大な木々がただ見下ろしていた。

締めようかと思ったけれど、自然と人について書いたついでに道中よく見る焼畑について触れてみます。

焼畑は簡潔にいうと森林が焼いて畑を作ること。やりすぎなければ再生するけれど、今のカンボジアはやりすぎてて森林減少中。

右脳的にいうとちょっと心が痛いし、左脳的にいうと持続的じゃないなぁって思う。でも生活するのに必要ならば、つまり子だくさんで畑広げないと飢えちゃうならば、その側面からはたぶんそれなりに正当性があると思う。

…なんていうどっち付かずの意見をもう1段階、高くから俯瞰してみるとき、思い浮かぶのは私が大尊敬してる教授のことば。


つまり自然はずっとずっと壮大で偉大な存在で、保護は愚か、共に生きると言うことさえおこがましいと。人間だって自然の一部なんだということでした。

そういえば近代以降の自然観っていかに自然を支配するか考えてるらしいけど、そりゃまたなんたるエゴよって話です。(治水とかはありがたいのだけど)

ゆえに焼畑しすぎて「これ続けたらヤバイやん」って気付いてからの、補正してくプロセスまで含めて自然の流れなんじゃないかなって思います。

そして他人への「それ焼畑しすぎだよ」「もっとこんな方法があるよ」みたいなアドバイス、つまり国際協力は、地球が住みづらくなって血が絶えちゃうのを避けるための、私たちホモ・サピエンスの生存戦略なんだろなと思うのです。

つまるところ種の繁栄が我ら人類の共通目的だから。ならばせめてヒトとして、謙虚な種でありたいものです。

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