認知症、それは人間が剥き出しになる病気

6月から地元の認知症専門デイケアでアルバイトしていた。一旦やめたこの折に、3ヶ月で感じたことを残しておこうと思う。

ただし今から書くのは専門知識ではない。3ヶ月だけバイトした私が、日々ドキドキしながら捉えた認知症とその介護の世界である。まだ消化しきれていない荒削りなものだが、それもそれで残しておく。そして認知症の症状は個人差が大きいが、他人の病気を勝手に語るわけにもいかないので一絡げに書くことを断っておく。

さて認知症とはつまり、脳の機能障害らしい。その名の通り「認知」する能力が下がって生活に支障をきたしている。そうするとまず、怪我をしても痛みを感じられない、かけられた言葉を理解できないといった自分以外の物事の認知が難しくなる。

これは想像以上に厄介で、たとえば8月の暑い日に一人暮らしの方をお迎えに行くとエアコンも付けず窓も開けず暑い部屋でぐったりしていることがある。暑さが感じられず、自分の不調の原因が分からないないのだ。とにかく換気して水分を取ってもらってから送迎車にお連れする。こんなことは日常茶飯事だった。

それから認知症が進むと、自分が今していることも何だか分からなくなってしまう。自分自身を認知する力も弱まっていくのである。

こうなると食事や排泄といった自分の体を生かすことができない。たとえば食べ物を認知できないためスタッフがスプーンで食べ物を口に運ぶが、自分がいま食事をしている事も認知していない。体が動く人なら、ふと立ち上がって歩いていってしまうこともある。席に誘導して食事を再開し、立とうとしたら名前を呼んだり腕に触れたりして注意を引きつける。そうして1時間近くかけて昼食のお手伝いをすることもあった。

こうして認知症が進むと1人で生きるのは危険となり、他者が介入して護る必要が出るのでこれを介護と呼ぶ。生きるお手伝いであり、ときに生きることの一部を代行することである。ご本人のペースを感じ取りながら、出来るだけそれに合わせて時間を過ごすのが仕事としての介護者の役割だと思った。

しかし、
距離感は近すぎてはいけない。相手は何十年と自分で生活してきた大人であり、誰しもが確かに尊厳を持っている。特にどんなに認知症が進んだ人でも、自分の陰部に触れられると手を押し返したり逃げる方向に動こうとしたり、抵抗する人がほとんどだった。

抵抗は厄介だが、重要なコミュニケーションである。体が動くのにトイレでお尻を拭かれることに全く嫌がる素振りがないとなると、これはいよいよ人との間に意思や感情が生まれていないのではと心配する。実際のところ抵抗が意思によるのか本能的な反応なのかは分からないが、介護者としては嫌がられた方が安心するという不思議な心持ちとなる。

思い返せば私もはじめ、他人の陰部を洗うことには抵抗が強く、タオルをグルグルに手に巻いて直接触らないようにしていた。しかし段々とタオルの巻き方が薄くなり、相手との距離も近づいていく。そうしてこちらが気を抜くと、相手はしっかり気付いて抵抗してくる。ハッと気付いてまたタオルをグルグルにする。こうして抵抗しあってバランスを取って、私はコミュニケーションしていたのだと思う。

抵抗されると仕事としては大変になるが、私個人の気持ちとしてはその人が生きていることを感じられる瞬間だった。

それから、
認知症が進んだ人たちは社会規範に縛られていない。これも興味深かった点である。ある人は嬉しいとどこまでも笑い声を響かせ、ある人は気に食わないとタオルも食べ物も床に投げ捨て、ある人は怒ると人に噛みついた。欲望をまっすぐまっすぐ表現する彼らは、建前に塗り固められたオトナのやり取りよりもずっと明快で痛快だった。

噛みつかれたのは痛かったし、しばらくその人が怖かったけれど、だからこそ私もどうしたら快適に過ごしてもらえるのか考えてまっすぐ接する事ができた。嫌味を言われるより噛みつかれる方がよっぽど良いと思えた。

しかし、
こう書くとやっぱり介護職は大変なんだと思われる読者が多そうなので、ここでイメージアップを図っておく。

私の場合、8時間勤務のうち入浴や排泄の介助は半分以下の時間だった。残る半分以上はゲームをしたり歌を歌ったり、できる限りの楽しいことをする。認知症が進んでいると難しいが、出来る人とはカルタやトランプ、ジェンガなんかもした。すると隠れていた特技が現れることも多々あった。

たとえば100均の野菜カルタで遊んでいる時、突然にんじんの札に書かれた"carrot"をばっちり発音良く読んだ方がいた。英語で話しかけたら英語で返してくれた。また、普段ほとんど言葉を発せず会話の難しい方が神経衰弱ではスタッフ以上の記憶力を発揮してびっくりさせられたこともあった。眠っていた能力がふと起きてきたそんな瞬間は、施設内がパッと華やぐような気がした。

長らく介護の重点は出来ないことのフォローだったが、近年は出来ることを残すアプローチが重視されていると聞く。それは日々を目一杯楽しむことで、大袈裟に言えば可能性を見出すことである。人生が終息に向かっていても、伸びしろは必ずあるのかもしれない。

認知症、それは人間が剥き出しになる病気。だからこっちも猫なんて被っていられない。その感覚が介護の1番の楽しみであった。

そして、ボケたって人間には尊厳と伸びしろがある。それは自然な人間性の現れ。まだ上手く言えないけれど、生きている意味があるということ、な、気がする。

たった3ヶ月だったが、残った感想はただ辛いでも楽しいでもなかった。興味深いとでもいうべきか。人間くさくて惹かれる仕事だった。もっと続けたら違うものが見えるだろう。親族の介護になったらまた全然違うかもしれない。

時間をおいて振り返っても違うことを書きそうだ。

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