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「不思議な薬箱を開く時・薬種・薬剤編」

いらっしゃいませ。
歴史の片隅に息づく神秘の伝統薬をご紹介致します。

「不思議な薬箱を開く時・薬種・薬剤編」へ、ようこそ。
今回は、どの様なお薬が登場致しますか。
ささ、薬店内へ、どうぞ、お入りくださいませ。

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「人面瘡治療薬法」について・4

こんにちは、みなさん。
今回は、次回予告の通り、
中国での「人面瘡」に効果のある薬剤のご紹介です。

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四夷、または夷狄という呼称をご存知ですか?
古代中国において四方に居住していた異民族に対する蔑称です。
異民族の支配を含め、中国大陸を制した朝廷が、
自らのことを「中華」と呼び、
中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を
東夷、北狄、西戎、南蛮
として、「四夷」あるいは「夷狄」と総称したのです。
他にも、夷狄戎蛮や戎狄、蛮(ばんい)とも呼ばれました。

三国志中でも、かの天才軍師、諸葛亮孔明でさえ、
南蛮地方の湿った暑さと環境の厳しさに、
数多の兵たちが病み衰えることに頭を痛めたという一節がありますね。

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そんな戦の真っ只中に、
捧暘谷という指揮官の脇腹に、奇妙な腫れ物が発見された、と、
「医療法誌」という記録書の中に残されている項目がありました。
足元の悪いジメジメとした沼沢地ばかりの上、
多湿で蒸し暑いという、なんとも戦意を削ぐ気候風土でしたので、
医師達の預かり知らぬ症例も、次々と発生したようです。

その中でも、捧暘谷の腫れ物は、「奇怪極まれり」と記されるほど。

「大人の掌際の大きさに
悪意に満ちし笑ひを浮かべたる顔によく覚ゆ」

大人の手のひらほどの大きさで、
悪意に満ちた笑いを浮かべている顔によく似ている。

脇腹にできた異様な腫れ物は、
まさに「人面瘡」の様相に似ています。

「この畏き腫れ物は
人の口に覚ゆる穴より 
酒呑み、干し肉をしゃぶるやうに喰らひ
腹減ると、いとど醜く顔歪めて患者にあららかなる痛みを与ふ」

酒を呑み、干し肉を食べ、空腹になると、
患者に八つ当たり紛いに、
激しい痛みをもたらすと言う、まさに「人面瘡」の症例です。

挙げ句の果てに、

「腫れ物は 人の声の如き音をたつ
小声に呟けるやうに聞こゆ」

腫れ物は、ぶつぶつと何かを小声で呟いているようだったと。

その呟きの内容は、
患者にしか理解できなかったようですが、
だいたいにおいて、悪口雑言であったとのこと。

呪い師や、道士、神仏にも頼り、
様々な治療と投薬がなされましたが、
捧暘谷は、日に日に衰弱し、
不思議なことに、腫れ物は日に日に、活き活きとしてきたようです。

まるで、捧暘谷の生命力を吸い取っているかのように、
はじめは、意味不明だった小声が、
次第に明確になり、
捧暘谷を肥しにして、自由の身になる、などと、
豪語し始めたのです。

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皆が皆、患者の為にも、
腫れ物が勢いづかない内に、
患者諸共、殺してしまおうという提案もで始めた頃、
丕承炳という老医師が、ある提案をしました。

「南蛮の病のことは、南蛮の者らに尋ねるがよかろう」

捕らえた捕虜達や、村々を回って、
奇病についての情報を集めた結果が、
“不治の病”であ理、
腫れ物が現れたら、本人の為にも、
殺害するとまで。

しかし、
丕承炳は、諦めませんでした。
聞こえは悪いですが、
どうせ、患者諸共、絶命させようとしていたのですから、
あらゆる治療法や投薬を試したようですね。

患者は、半死半生で寝ついたままとなり果て、
意識も無くしかかっている有様。
老医師は、医師の意地とプライドにかけて、
捧暘谷の生命の火を消さないように、
つまりは、「人面瘡」も生かしながらとなりますが。

そして、ついに、見事、効果が表れた薬の処方が、これです。

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「神药槍药丸」処方

透明石膏(沙漠産)・・・・・親指大三個
蛤蚧肝(雄のみ使用)・・・三個
棘猬皮・・・・・・・・・五寸四方
水蛭(雌のみ)・・・・・・六匹
洋地黄散・・・・・・・・小匙二杯
眼镜蛇身毒小湯・・・・・小匙二杯

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苦労はしますが、命に関わるような危険度は、
今までに比べれば、やや低い方です。
水蛭は、雌のみ使用いたします。
殺さないで、生きたままを「人面瘡」の口の中に押し込みます。
水蛭以外の薬種を丁寧に混合し、
粘性がつくまで、ゆっくりと煎じます。
透明石膏を微粉末になるまで砕き、
煎じた液を混ぜて丸薬にします。

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諸注意

つまり、全ては、「人面瘡」の口中に押し込む為の処方です。
記録によれば、「人面瘡」は、内部から水分を全て吸い取られ、
カラカラに干からび、瘡蓋のようになって剥げる、とのこと。
ここで、他の「人面瘡」との相違点が、一つあります。
捧暘谷は、鍛え上げられた指揮官ではありましたが、
過酷な自然環境での戦いに、かなり疲弊していたと予想されます。
つまり、抵抗力が著しく低下していたのですね。
地元民からの情報からも、この「人面瘡」は、
感染する可能性がある、ということです。
現に、丕承炳医師の死因は、
捧暘谷と同じ、不気味な腫れ物であった、と、記録にあります。
丕承炳医師は、「人面瘡」を
南蛮に生息する寄生虫が引き起こす、と、考えていたようです。

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