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2020.7.19 昭和天皇 涙の巡幸記

「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。」

「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。」

終戦後、昭和天皇による初の全国巡幸が決まってすぐ、それを見守るGHQ高官たちの間で、口々に陛下を罵る会話が飛び交っていました。

それもそのはず…。

戦争の歴史を見ると、敗戦国の元首や国王は廃位に追い込まれるのが通例。

フランスを大帝国にまで導いたナポレオンも晩年には流刑地に送られ、ドイツのヒトラーは自殺、イタリアのムッソリーニは処刑。

敗戦の将の未来は死か、良くて亡命と相場は決まっていました…。

まだ、国民は敗戦のショックからか、国内から天皇陛下を責める声は聞こえていませんでしたが、ひとたび全国巡幸が始まれば、国民の怒りは陛下に向き、暴動に発展。
昭和天皇も処刑されるか、外国に亡命するに違いない…。
欧米人たちは、皇室の運命ももはや風前の灯火のように考えていました。

しかし、その結果はGHQ高官たちの期待を裏切るものだでした。

「わたしは失意と虚脱にあえぐ国民を慰め励ましたいので、日本全国を回りたい…」

終戦から1ヶ月余り経ったある日。

昭和天皇は、GHQ最高司令官マッカーサーのもとを訪れ、このように発言されました。

「戦争責任はすべて私にある。私の一身はどうなろうと構わないが、国民には責任がない。どうか国民が生活に困らぬよう、援助をお願いしたい」

自らの身を顧みず国民の命を第一に考えられたお言葉…。
さらに続けて国民を励ますため、自らが全国巡礼をするための許可を申し出られた。

マッカーサーはこれを了承。
全国巡幸が決まった瞬間でした。

全国御巡幸への固い御決意

天皇陛下は、直ちに宮内庁の幹部に巡幸の準備を命じられました。
この時、昭和天皇は
「この戦争によって国の領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けた。
わたくしとしては、どうすればいいのかを考え、また退位も考えた。

しかし、よく考えた末、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。

自分はどんなになってもやり抜くつもりであるから、私の健康とか何とかは全く考えることなく全力を挙げて計画し実行してほしい。」
と、宮内庁の職員にこのような言葉をかけられたといいます。

こうして、1946年2月から全国巡幸は始まりました。

佐賀県・因通寺を御訪問

全国巡幸を始められて、九州地方への御訪問の日程が決まった際、
「九州行幸の際には、ぜひ赴きたい」
と陛下が仰られていた場所があります。

それは、佐賀県の因通寺というお寺。
ここでは、44名の戦争孤児を救護していました。

陛下のご意向で、このお寺への御訪問が決定されましたが、これには恐れていることがありました。

この地域は、“打倒天皇制”を掲げた共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後であったため、暴動が起きる可能性がかなり高い場所でした。
実際、因通寺のある町では、陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きていました。

歓迎するのにも命がけの雰囲気で、反対派から何をされるか分からない。

1949年5月24日。
いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かいました。
天皇陛下が到着されると、参道には遺族をはじめ大勢の人がつめかけました。
陛下は最前列に座っていた老婆に声をかけられると、戦争で息子を亡くした老婆は泣き崩れ、陛下も同じく涙しました。

施設の中を訪問された際も、孤児たちが立派に生きる姿に感銘を受けられ、
「これからも立派に育っておくれよ」
と声をかけ、大粒の涙をハラハラと流されました。

そして、陛下が施設を出られた後、恐れていたことが起きます。

待ち受けていたのは、若い青年と思われる数十人が一団。
シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立の為に共産党に入党した者達です。
その者達はすごい形相で、赤旗を立てていた。
陛下の行幸を利用し、戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていました。

「天皇陛下万歳」とあげられていた声もピタリと止んでしまいました。

睨み合いのような状態が続き、緊張した雰囲気が漂う中、周りの者も陛下をお守りしなければと構えています。
その時、陛下はスッと前へ出られ、深々と頭を下げ、
「長い間、遠い外国で色々苦労して、深く苦しんで、大変であったでしょう。皆さんは、外国において色々と築き上げたものを全部失ってしまった事であるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進む事を希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」
と、その者達に話しかけられました。

彼らの企みをご存じない陛下は、慈愛に溢れた表情でした。

すると、一人の若者が陛下の前ににじり寄りました。

「陛下が危険だ!」と周りの者が駆けつけようとしたましたが、若者は涙を流し言葉を発しました。

「天皇陛下さま、ありがとうございました。今頂いたお言葉で、私の胸の中は晴れました。外国の地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。」

「ああ、戦争さえなかったら、こんな事にはならなかったと、思った事も何度かありました。そして、天皇陛下さまを恨みました。しかし、苦しんでいるのは私だけではなかったのです。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃる事が、今わかりました。今日から、決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」

男は地面に手をつき泣き伏した。
懐には短剣が忍ばせてあった。

「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。俺が間違っておった。俺が誤っておった。」

泣きじゃくる男に、他の者達も号泣しました。

陛下は優しい眼差しで彼らを見つめておられました。
お仕えの者が陛下のお傍に来て促され、ようやく陛下は歩を進められました。

陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」
と声をかけた。
すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。」
と申されました。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去って行かれる。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。

陛下が国民の前で涙を流され、心からのお言葉をかけられた時、人々は知りました。
陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてを抱え込んでいらっしゃる事を…。

こうして、全国巡幸は約8年半の歳月をかけて行われ、その全行程は3万3000km。

国民の前に姿を現された陛下にどこからともなく「天皇陛下万歳」の掛け声が起き、その声が周囲を巻き込んで大合唱となり、それは地響きのようでした。

これに合わせて目の前におられる陛下が、ぎこちない手でシルクハットを高く揚げてお答えになる光景に国民は感動を覚えました。

病床でのお言葉。

残すはあと1つ。
沖縄へのご訪問の直前に陛下は突然、体調を崩されました。
「もうダメか…」
病床につかれた陛下は小さく呟かれました。
医師たちは、陛下ご自身のお命のことかと思ったようですが、実は、
「沖縄訪問はもうダメか」
と問われたのでした。
陛下は崩御される最期まで、自分自身のことよりも国民のことを想い、日本復興を願っていました。

戦後、自らの危険を顧みず全国を巡幸された陛下は、国民に寄り添う気持ちを持ち、それに対し国民は陛下に敬意と感謝を表しました。
「暴動に発展するに違いない」
というGHQの思惑とは裏腹に、日本国が君臣一体となったこの光景に世界の国々が驚愕しました。

実際、当時のイギリスの新聞ではこのように報じられています。

「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されていますが、天皇の声望は衰えていない。各地の巡行で、群衆は天皇に対し超人的な存在のように敬礼している。何もかも破壊された日本の社会で、天皇が唯一の安定点をなしている。」

欧米人の常識では理解できないことが日本では起こっていたのです。
これには、日本人が本来強く持っている“ある心”が関係していたのです。

それは、互いを思いやる

“利他の心”

昭和天皇をはじめとし、戦前の教育を受けた人たちは、明治天皇のご発案で作られた「教育勅語」をもとにした人の生き方を学んでいました。

・人間はまず家庭や交友を通して人と和する生き方を学び、

・次に、共同体に貢献するための教養を学び、

・そして、国家や社会のために尽くす

教育勅語の徳目からは
「人のため世のために尽くせる人間となる」
といった日本独特の人間観を学ぶことができたのです。

そして、昭和天皇の”利他の心”を体現した全国御巡幸は国民を勇気付け、敗戦後、焼け野原だった状況から約20年で世界第二位の経済大国までの急成長を成し遂げた原動力となっていきました。

心理学の創始者の一人で、オーストリアの精神科医・心理学者のアルフレッド・アドラーも
「他者の幸福のために努力することが、真の『快楽原則』である」
と説いていたり、現代の最新科学でも、
「互いに支え合い、そして自らの役割を立派に果たすことによって生きがいを感じる」
ということが証明されつつあるなど、“利他の心”の効用は認められつつあります。

現代の教育ではうやむやにされていますが、戦前を生きた先人たちは
「他者との繋がりの中で生きる人間観」
をしっかりと学び、他国に負けない“軸”にしていたのです。

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