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人へ関心を持つということ

今日の、いやここ最近の中での一番びっくりして、でも事実を知ってスッキリしたこと。
「人に関心を持つ、人に関心を持たれる」
という意味を捉え違えていた自分を知ったこと。
今までの私の中での「人に関心を持つ」は、
「人に興味関心を持つ」
とか
「好きや嫌いという感情があるかないか」
みたいな、表面的な浅い部分で判断していたし、そうだろうと思っていた。
が、そんなふうに思って行動していたここ最近、なんか不満足がある自分がいて、でも何故かわからなかった。
こういうことだったのか…と明らかになり、
なんだぁ!とスッキリ。
本来の自分が望んでいる目的に沿っていなかったから、そりぁ不満足だろう。
でも、こんなふうに本来の目的に沿って生きていないと、なんか動いてはいるけど、重たくて身動きが取りづらい感覚になるんだと、自分でその感覚を実感できたのは私にとっては非常に大事なこととなった。
なぜなら、今からも本来の目的に沿わずに生きているときに、このような感覚になるんだと目安がわかると、自分で気づき、軌道修正できるから。
そして、私はリーディングに来る方にも、似たような状況になっている人に、私が今回実感したことを参考に伝えていけるという喜びにもなった。

人に関心を持つという、奥深さや、今の私では到底想像だにできないことへ向かうことへの途方のなさを感じつつも、でも意欲や興味がどんどん溢れて湧いてくる自分が今日いるのが事実。

⚫︎今日知った私の部族的信念
「人に関心を持つ」
が、
「人への興味・好き嫌い」
だという認識。

本来はその先にあるのが
"人へ関心を持つ"ということ。

"人へ関心を持つ"ということは、
・関心を持つというのは自分が相手の成長に影響を与える
・関心をもたれるというのは、相手が自分の成長に影響を与えるということ

⚫︎今日、得たもの
本来、私がしたいと願っていた
"人に関心を持つ"とはどういうことか、という意味

⚫︎今日、得られなかったもの
人に関心を持つ
→まだ、興味や好奇心の方が私は強いと感じた。


〜私の「部族的信念」の定義〜
子どものときに、家族、教師、宗教的しつけなどによって植え付けられる無意識の前提