天使は腕の中①

 その写真を初めて見たときに『天使のようだ』と感じたことを、矢吹伊織(やぶき・いおり)は覚えている。
 大学の構内で開催されていた写真コンテストで、大賞に選ばれた一枚だった。青空を見上げる人物を、地面に近い視点から見上げる構図で、人物の白いシャツの裾がふわりと広がって、風が吹いていることを感じさせる。逆光になっていて、表情は窺えない。
 写真パネルの脇に掲示された撮影者の名前と在籍学部を見て、伊織は少し驚いた。掲げられていた名前は、同じ学部で同じ学年の友人、徳田桃寧(とくだ・ももね)だった。少しおっとりとした気質の彼女とは一年生の頃からの仲で、同じ授業のときは大抵近くの席に座っている。伊織も桃寧も実家を出て独り暮らしをしているので、料理を作りすぎたときなどに互いに分け合ったりもする。
 しかし、桃寧が写真を趣味にしているとは、伊織は知らなかった。詳しく話を聞こうと思ったときに限って、桃寧とは取っている授業が重なっていない。興味のない授業を、だらしなく頬杖をついて聞きながら、伊織は写真パネルのことばかり考えていた。

 伊織は授業が終わると、大学近くにあるチェーンの大型書店でアルバイトをしている。一八時からのシフトに間に合うように、一旦帰宅していた学生マンションを出る。自転車で一〇分少々といったところだ。従業員用の駐輪場にクロスバイクを停める。
「おはようございます」
「矢吹くん、おはよう」
 店に入って挨拶をすると、スタッフが口々に挨拶を返してくる。ほとんどがアルバイトやパートで、昼間は近所の主婦やフリーター、夕方から夜にかけては伊織と同じように大学生が多い。バックヤードの更衣室に荷物を置き、白いシャツの上から、制服の黒いエプロンを掛ける。
「あ、矢吹くん、おはよ」
 タイムカードの打刻のために事務所に入ると、ひとりのスタッフがいた。長身の伊織と比べ、背丈は頭一つ分くらい低い。茶色に染めたボブヘアに、左耳の上の辺りを赤いピンで留めている。在庫管理や事務作業に使われるパソコンから、一瞬だけ顔を伊織の方に向けた。
「おはようございます、久米(くめ)さん」
 この人物について、名前が久米遼(はるか)であることと、アルバイトたちをまとめるサブリーダーであること以外、伊織はあまり詳しく知らない。名前の読みが『はるか』であることも、比較的最近知ったことで、それまでは『りょう』だと思っていた。誰かが『はるかさん』と呼んでいるのを聞いて、初めて自分が名前を間違って覚えていたことに気づいた。パソコンの画面に視線を戻しながら、薄い唇で言葉を発する。
「ごめん、今日ちょっと昼勤の人が少なくって。悪いんだけど、すぐレジに入ってきてもらえるかな?」
「分かりました」
 女性にしてはややハスキーで低く、男性にしては高めの声だ。タイムカードを打刻して、伊織はUターンで事務所から売場に出る。腕時計は、あと一〇分で一八時になることを示している。遼のシフトは大抵、一八時が終業時刻だ。勤務日が重複していても、伊織と勤務時間が重なっていることはほとんどない。挨拶と業務連絡ぐらいしか、言葉を交わすこともない。
 レジカウンターに向かって歩きながら、伊織は自分の左のこめかみの辺りを、指でそっと触れた。今日も赤いピンだったな、とぼんやり考えるのは、遼のことだ。遼はかなり童顔で、おそらく伊織よりも年上だというのに、高校生か、あるいは中学生くらいにも見える。本人も気にしているらしいというのは、同じ大学生アルバイトから聞いたことだ。コンビニで酒を買うときに、ほぼ毎回年齢確認をされてしまうらしい。
 レジには既に、本や文房具を買い求める客の列が出来ていた。レジは四台あるが、稼働しているのは二台だけだ。挨拶もそこそこに伊織はカウンターに入り、三台目のレジを開ける。
「お待ちのお客様、一番奥のレジへどうぞ」

 書店の営業終了時刻の二二時が近づくと、通常はクラシックやジャズを流している店内BGMは『蛍の光』に切り替わる。手分けをして店内を見回りつつ、レジ内の売上金の確認をして、二二時過ぎには店を閉められるように片付けをする。
「お疲れ様」
 二二時を回り、BGMも止まって静かになった店内で伊織がレジのチェックをしていると、ぽつと声が聞こえてきた。思わず手を止める。
「あれっ、久米さん」
 本を抱えた遼が、レジの近くにいた。他のスタッフは、レジを閉める担当になっている伊織以外、もう既に帰っている。
「今日って夕勤でしたっけ」
「ううん、本当は一八時上がりなんだけど。他店からの在庫問い合わせに対応したり、次のシフト表作ったりしていたら、こんな時間になっちゃった」
 あはは、と何でもないことのように笑いながら、遼は抱えていた本を入口近くの平台に置く。人気作家の二年振りの新作小説ということもあって、伊織が覚えているだけでも、今日だけで一〇冊以上は売れていた本だ。売れることを見越して多めに発注した、と店長が言っていたように伊織は記憶している。
「遅くまでありがとうね、矢吹くん。助かるよ」
「いえ、久米さんこそ、遅くまでお疲れ様です」
 売上金額を報告書に書き込み、ファイリングする。遼はバックヤードと売場を何往復かして、本を運んでいた。
「俺も手伝います」
「いいよ、もう上がる時間でしょ?」
「それを言うなら久米さんもそうですよね」
 遼と一緒になって、伊織も本を運ぶ。一畳くらいの広さがある平台に、新刊と、同じ作家の既刊をうず高く積み上げ、積んでいる間にずれた手書きのポップを直して、時計の長針が真下を指す頃にようやく作業は終わった。
「助かったよ、ありがとう」
 はにかみながら、遼は髪を留めているピンを直す。帰ろうか、と事務所に向かって歩き出す遼の背中を、その真後ろを歩きながら伊織はぼんやり眺めた。白いシャツは、背中が少し余ってだぶついている。
「久米さんって、何歳なんですか」
 何気なく尋ねると、遼は大きな丸い目で伊織を振り向いた。
「何歳に見える?」
 にこっと笑いながら、質問で返される。伊織は少し眉を寄せた。
「高校生、くらいですかね……見た目だけなら」
「ああ、見た目はね。よく年齢確認されるし」
 幼く見られることはもう慣れているようで、遼はさらりと流す。
「君よりも年上だよ。大学も卒業しているし」
「そうなんですね」
「まだ三〇代には、ぎりぎりなってないくらいかな」
 事務所に戻り、遼はパソコンの電源を切る。伊織はタイムカードの退勤時刻を打刻した。
「何歳くらいなのか、全然想像が出来なくて」
「いいよ、年齢不詳って言われるのも慣れてるから。別に年齢くらい、ただの数字だと思っているから気にもしてないしね」
 伊織が更衣室に入っている間も、遼はまだ事務所で何か作業をしていた。鞄を持って戻ってくると、電源を切ったパソコンの前で、何か書類を広げている。
「お先に失礼します」
「うん、お疲れ様。ゆっくり休んでね」
「はい」
 そういえば遼が事務所と売場以外の場所にいるところを、見たことがないなと伊織はぼんやりと思った。だからといって何ということもないのだが、制服のエプロンを掛けていないときの遼は、どんな格好をしているのだろうかと、少し興味があった。

 翌日。学生食堂に伊織が入ると、隅の方の席で誰かが手招きしているのが見えた。
「矢吹、こっちこっち」
「徳田」
 桃寧だった。四人掛けのテーブルをひとりで占領して、ノートパソコンを開いている。
「そろそろ矢吹が来る時間かなって思ってたんだ」
「思わなくても、水曜日はいつもここでお昼食べてるけどね」
「だからだよ」
 桃寧の正面の席に座り、伊織は売店で買ってきたパンとおにぎりを鞄から取り出す。ここの学生食堂は、併設の売店で買ってきたものに限っては持ち込み可だ。焼きそばパンと迷って、先にツナマヨネーズのおにぎりの包装を開ける。
「この前のコンテスト、大賞だったんだろ。おめでとう」
「あ、見てくれたんだ? ありがとう」
「お前が写真を趣味にしてるのは、知らなかったよ」
「あんまり大学には持ってきてないからね、カメラ」
 既に昼食を済ませたらしく、桃寧のパソコンの脇には菓子パンの空袋が転がっている。野菜ジュースの紙パックを左手に持ったまま、右手は忙しくマウスを動かしていた。
「今何してるの?」
「先週撮った写真の選別。見る?」
 言いながら桃寧がパソコンを傾けようとするので、伊織は食べかけのおにぎりを持ったまま席を立ち、桃寧の隣の席に座り直した。画面を覗き込むと、似たような構図の写真が十何枚、ずらりと並んでいる。バラ園だろうか。緑を背景に、色とりどりの花が咲いている。
「電車でさ、五駅先のR駅の最寄りにバラ園があって。そこで写真撮ってきたんだ。天気も良かったし」
 写真に写っているのは、花ばかりではない。一〇代くらいと思しき少女が、時々映り込んでいる。あるいは少女を中心にして撮影されている。
「この子は?」
「モデルさん。こう見えて二〇代なんだけど、全然幼く見えるよね」
「中学生か高校生くらいに見えるかな」
「私も最初はそう思った。うちの大学の卒業生なんだって」
「へえ」
 伊織はまじまじと、少女の写った写真を見つめた。丸く大きな目、ふわりと広がるワンピースドレス、長い髪。
「可愛い」
「でしょう? コーディネートしたのは私だよ。ここのバラ園、撮影用に衣装レンタルもやってるから、似合いそうなのを借りて、メイクして――」
 興奮すると早口になるのは、桃寧の癖だ。楽しそうに話す桃寧の言葉に、時折相槌を打ちながら伊織は耳を傾ける。話しながら、桃寧の手は忙しくパソコンを操作して、選び出した画像を別のフォルダに移したり、気に入らないものをゴミ箱に移すことを繰り返した。
「矢吹も来る?」
 不意に桃寧が顔を上げ、伊織に尋ねた。えっ、と伊織が聞き返す。
「どういうこと?」
「来週末にも、また同じように撮影の予定あるから、良かったら来たらと思って」
「俺が?」
「気にならない? モデルさんのこと。それに、前の学内コンテストのときのモデルも、この人だよ」
 これね、と桃寧が写真を見せてくる。あの、青空を見上げる人物の写真。この人物の正体が、この大学の卒業生だと言われると、少し興味が湧いてくる。
「……気になる」
「でしょう? じゃあ決まりね。来週の土曜日。時間はまた、連絡するから」
 言われるまま、伊織はスマートフォンのスケジュールアプリを立ち上げ、来週の土曜日に『撮影会 徳田』と書き込んだ。桃寧に見せると、うんうん、と頷かれる。
「ふふ、楽しみになってきた。後で写真一枚送っとくね」

 書店の事務所では、相変わらず遼がパソコンをいじっていた。伊織が入ってきたのを目線だけ上げて見ると「おはよう、矢吹くん」と挨拶の言葉を口にする。
「おはようございます、久米さん」
「早いね」
「授業が早く終わったので」
 離しながら伊織は、エプロンの腰ひもを背中側で蝶結びにする。遼はすぐにパソコンの画面に目を戻した。
「今日はお客さんどうですか」
「あんまり多くないよ。明日がコミックスの新刊発売日だから、明日は混むんじゃないかな」
 POSレジの売上データを睨みながら、ううん、と遼は小さく唸る。天気があまり良くないことも、客足が遠のいている一因かもしれない。
 伊織は売場にふらりと出た。ちょうど昼勤と夕勤の入れ替わる時間帯で、スタッフが忙しなく行き来している。
「おはようございます」
「おはよう、矢吹くん」
「おはようございます」
 挨拶が飛び交う。今日は欠勤のスタッフはいないようだった。昼勤シフトのスタッフ数人が、お疲れ様です、と挨拶をしながら事務所に引っ込んでいく。
 伊織は自分のエプロンを見下ろした。白いプラスチックに『矢吹』と彫られた名札、その下には出版社のキャンペーンを告知する缶バッジが留められている。
「じゃあ、お疲れ様」
 しばらくすると、帰っていくスタッフに紛れるように、遼もリュックを背負って帰っていった。制服の白いシャツの上から、ベージュのカーディガンを羽織って、長めの袖の先からは細い指先だけが覗いていた。

 時間は存外早く過ぎた。あっという間に翌週の週末が訪れ、その間に伊織は七回、書店のシフトに入って働いた。
『明日、一〇時にN駅ね。モデルさんはR駅で合流』
『わかったよ』
 昨日の夜に桃寧と交わした会話を、伊織はメッセージアプリの履歴で確認する。大学最寄りのN駅に一〇時少し前に行くと、桃寧は先に着いて、改札前の柱に寄り掛かって伊織を待っていた。
「ごめん、待たせた」
「全然。今来たとこだから」
 この会話だけならデートの待ち合わせの男女と何ら変わらない。伊織と桃寧は、あくまで友人同士だ。ボディバッグに財布とパスケースだけを入れてきた伊織とは対照的に、桃寧は普段通学に使っているのと同じリュックを背負って、カメラ用の収納バッグを肩に掛けている。
「何か持つ? 重いだろ」
「平気、いつもと同じだから慣れてる」
 言いながら、桃寧はカメラバッグのベルトを掛け直した。慣れているのもあるだろうが、相手が伊織とはいえ、大切なカメラを他人に持たせたくないのだろう。リュックには財布などの貴重品が入っているはずだ。
 改札を抜け、ホームに滑り込んできた電車に乗り、五駅。バラ園最寄りのR駅は、快速電車の止まらない小さな駅だ。降りる客も乗る客も数えるほどしかいないホームを通り過ぎ、無人の改札を抜ける。申し訳程度の広さしかない駅前ロータリーは、路線バスも、タクシーの一台すら停まっていなかった。
「本当に人がいないね、この駅は」
「まあ、バラ園に行く人も、だいたいは車で行くだろうし。駐車場あるから」
「まあそうか」
 駅前ロータリーの端に置かれたベンチに、ひとり座っている人がいる。それが待ち合わせの人物であると、言われる前に伊織も察した。
「はるかさん」
 桃寧が名前を呼ぶ。はるか、とその名前を反芻した伊織は、待ち人の顔を見て、目を見開いた。
 久米遼だった。ショートボブの髪の上にアイボリーのベレー帽を被り、膝上のキュロットパンツとショートブーツを合わせている。ちょんと揃えられた膝は丸く、名前を聞いていなければすぐには遼と気づかなかったかもしれない。
「モモちゃん、おはよう」
「おはようございます」
 ぴょんと跳ねるように立ち上がった遼は、桃寧と挨拶代わりのハイタッチをして、それから伊織を見た。
「あれ、矢吹くんだ。モモちゃん、知り合い?」
「同じ大学の、同期なんです。それより遼さんも、矢吹のこと知ってるんですか?」
「うん、バイト先の後輩だよ」
 伊織が仕事中に見ている遼よりも、服装のせいか、今日はいくらか幼く見えた。一〇代と言われても信じてしまうだろう。桃寧と比べても、遼の方がまだ背が低かった。
「矢吹くんとこんなところで会うなんて、世間は狭いね」
 遼はそう言って、ころころと笑った。ぐ、と何か詰まったような音が、伊織の喉から漏れた。まさかこんなところで会うとは伊織も思っていなかったが、嫌な気持ちはしなかった。
 R駅からバラ園までは、歩いて二〇分弱かかる。道中、桃寧と遼は隣に並んで話しながら歩き、伊織はその後ろで、会話を聞くともなく聞きながら歩いた。二人の会話は、伊織が高校生の頃に同じクラスの女子たちがしていたような、特に内容があってないようなものだった。昨日の音楽番組は観たか、大トリのアイドルが格好よかった、どこそこのブランドのコスメの新商品がそろそろ発売になる、今日は晴れてよかった、昨日の教職課程の授業があまりにも面白くなかった、そういえば学内の写真コンテストで賞を取ったんだってね、おめでとう。
 会話の内容には事欠かないのか、桃寧と遼は話題をとっかえひっかえ話し続け、伊織は口を挟む隙もなくそれを聞き続けた。最初のうちは聞き漏らさないように気をつけて聞いていたが、そのうち大して重要でもないなと判断し、歩く間のBGMの代わりにした。二〇分の間、二人ともが黙っていたのは一分ほどしかなかった。
 三人分の入場料は、桃寧が取りまとめて支払った。バラ園は広大で、おそらく大学のキャンパスよりも広いな、と園内の案内地図を広げながら伊織は考えた。入退場ゲートから近い位置に洋館があり、そこで衣装がレンタルできるのだと桃寧は伊織に説明した。
「今日はどんなのにする?」
 貸衣装コーナーで、ハンガーに掛けられてぎっしりと並んだドレスやワンピースを眺めながら、遼がうきうきと尋ねる。貸衣装はほとんどが洋装だった。
「これなんてどうでしょう? あ、こっちも可愛い。こっちも似合いそう……」
 衣装を次から次へと手に取って、桃寧はひとつひとつ遼の体に当ててみる。色鮮やかなワンピース、『不思議の国のアリス』を思わせるデザインのピナフォア、コルセット付きのディアンドル、真っ白なウェディングドレス。遼も積極的に衣装選びに参加し、ひとり蚊帳の外の伊織は、桃寧の荷物を持たされてコーナーの隅に立っていた。
「ねえ、矢吹くん」
「え、あ、はい」
 ただの荷物持ちと化していたところに声を掛けられ、伊織は慌てて顔を上げた。フリルブラウスとジャンパースカートを合わせた衣装を体に当てて、遼が伊織を見ていた。
「どうかな?」
「あ、えっと……いいと思います」
「君も何かいいと思うのがあったら、選んでいいんだよ。ここは何着借りても同じ値段だから」
 言いながらジャンパースカートを椅子の背もたれに掛けて、遼はまた別の衣装を漁り始める。桃寧の荷物を持ったまま、伊織も衣装に近づいた。空いている片手で、適当に一着引っ張り出す。白いふわふわしたシフォン素材のワンピースだった。
「それがいい?」
 遼が近づいてくるので、伊織はワンピースを遼に重ねてみる。似合わないはずがないとは思ったが、遼の幼さを強調して、よく似合って見えた。
「あ、それいいね。ひとつそれにしようか」
 別の衣装を見ていた桃寧が、伊織と遼を振り向く。伊織が何か言う前にワンピースをハンガーごと取り上げると「じゃあ靴はこれがいいかな、二四センチでしたっけ」と言いながら靴コーナーを漁り始めた。
「いつもこんな感じだよ」
 呆然としている伊織に、遼はまた笑いかけた。
 三〇分ほどかけて衣装と靴を選び終えると、桃寧は遼を更衣室に連れ込んでいった。また荷物持ちに戻った伊織は、洋館の廊下に置かれたベンチに腰掛け、二人が戻ってくるのを待った。
 待ちながら伊織は、そういえば遼の私服姿は初めて見たな、とぼんやり考えた。遼はいつも、白シャツの上にカーディガンを羽織った姿で職場にやってくる。カーディガンのバリエーションぐらいしか、伊織は見たことがない。キュロットパンツとショートブーツが、遼にあんなに似合うことを、伊織は知らなかった。よく似合って可愛らしい、まるで少女のような――
「……ん?」
 ぴたり、と伊織の思考が止まる。少女のような、とは思ったが、遼は女性なのだろうか。桃寧と遼が女性ものの貸衣装を選んでいたので、伊織も疑いなく女性ものを選んだが、それでよかったのだろうか。
 書店で働いているときも、伊織は一度も疑問に思わなかった。いや、もしかしたら思ったことがあるのかもしれないが、大した問題ではないと、頭の中からすぐに消していたのだろう。
「お待たせ」
 桃寧と遼が戻ってくる。伊織が選んだ白いシフォンワンピースと、桃寧が選んだ黒いエナメル靴、白いレースのついたソックス。被っていたベレー帽の代わりに、黒いリボンカチューシャを頭に着けている。疑いようもなく、遼は少女の見た目をして、伊織の目の前に立っていた。
「似合ってます、すごく」
 口から出た言葉は、嘘偽りのないものだった。言葉を掛けてから、果たしてそう言って良かったのだろうか、と伊織は思ったが、遼は嫌がるでもなく、むしろ嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。矢吹くんが選んでくれたのが一番良いと思ったから、それを最初に着ようと思ったんだ」
 女性とも男性ともつかない声で、遼は笑う。伊織も曖昧に微笑んだ。
 バラ園に客は少なく、ほとんど三人の貸し切り状態だった。快晴の空の下、桃寧は気に入りのデジタル一眼レフを構え、その撮影範囲内で遼は自由に歩き回ったり、バラの花に顔を近づけたり、ポーズを取ったり、あるいは何もせずに空を見上げたりした。
 無機質なシャッター音が響く傍らで、伊織は再び荷物持ちに徹した。広々とした庭園にはバラの香りが立ち込め、その中を踊るように軽やかに歩いていく遼と桃寧を眺めながら、付かず離れずの距離を保って歩く。
「可愛い! すごく可愛いです」
 遼の纏う白いワンピースの裾がふわりと広がり、細く白い太腿が覗く。幼い頃に、姉が持っていた着せ替え人形を伊織は思い出した。あれは髪が長かったが、姉が人形によく着せていたのは白いレースのワンピースで、裾から覗く脚は折れそうに細かった。あの人形はどこに行ってしまっただろうか。
「矢吹、レンズ交換するから鞄貸して」
 桃寧に呼ばれ、伊織は肩に引っ掛けていたカメラバッグを手渡す。急に現実に意識を引き戻されたためか、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなった。数メートル先で黄色いバラを見ていた遼が、小走りで戻ってくる。
「矢吹くんは、撮らないの?」
「えっ」
「写真。せっかくだし、撮ればいいのに」
 しゃがみ込んでレンズの交換を始めた桃寧から少し離れ、遼は伊織の目の前に立った。普段から長い睫毛が、マスカラでさらに伸ばされていることに伊織は気づいた。
「メイク、してるんですね」
「うん、してるよ。普段はベースくらいしかしないんだけど」
 返事になっていない伊織の言葉にも、遼は当たり前のように言葉を返してくる。伊織はチノパンの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動した。遼がその場で、くるりと回ってみせる。
「好きなタイミングで撮ればいいよ。僕はあまりポーズを決めたりはしないから。何枚撮ったっていいし、連写してもいいよ」
 たっ、と靴音を立てて、遼が駆け出した。品種違いのバラが茂る隙間の通路を駆ける遼を、伊織は慌てて追いかける。白いワンピースの裾が揺れる。
「あんまり遠く行かないでよ」
 桃寧の声が追いかけてきたが、返事をしている余裕はなかった。伊織は走りながら、時折振り向いてくる遼にスマートフォンのカメラを向け、そしてシャッターは切れなかった。走りながらでは、どうしても激しい手ブレが発生する。そう考えている間にも遼は先に先にと進んでいくので、伊織は一旦、遼を追いかけるのに集中することにした。
 バラ園は広大で、緩やかな起伏のある地形をしている。細かく巡らされている通路を、遼はまるで幼い子どものように駆けていった。走るたびにスカートの裾が揺れて、白い腿の裏側がちらちらと太陽に輝く。その清純な姿と、立ち込めるバラの香りが、走り続けて軽い酸欠を起こしている伊織の意識を余計にぐらぐらと揺らした。
「ここらへんでいいかな」
 ようやく遼が立ち止まって、伊織も数秒遅れて追いついて止まった。小高い丘になっている場所で、白と赤のバラが多く植えられている。
「どこまで行くのかと思いました」
 膝に手をついて、伊織が言った。くす、と遼が笑う。
「桃寧ちゃんが、すぐに追いつけないところまで行こうと思って」
 伊織はぐるりと辺りを見回した。見える範囲はバラの花が溢れて、桃寧の姿は見えない。
「怒られますよ。遠くに行くなって言っていたのに」
「そのときは、僕も一緒に怒られてあげる」
 くっく、と笑う声は、悪戯をした子どものそれと変わらなかった。遼の白い首筋を、透明な汗がつっと滑り落ちていく。
 伊織がスマートフォンのカメラを向けると、遼は一瞬だけ目を見開いて、そして微笑んだ。
 ――カシャ
 シャッター音が響く。切り取られた一瞬が、スマートフォンの画面に静止画として残る。画面の外で、遼がくるりと回ってみせた。伊織の指は、またシャッターボタンを押す。
 ――カシャ
 遼の大きな目は、その調子、と声を掛けているように伊織に思わせた。その目が瞬きをして、次のシャッターを促す。
 ――カシャ
 白い指先が、赤いバラの花を掬う。その香りを確かめるように、遼が顔を近づける。薄桃色の唇の前で、ほろり、と花弁が一枚落ちる。天使のようだ。伊織はふと、そんなことを思った。以前にもどこかで、そんなことを思ったような気がする。
 ――カシャ。

「遠くに行かないで、って言ったでしょ」
「ごめん」
 桃寧のところに戻ると、彼女は怒ってはいなかったが呆れていた。
「子どもじゃないんだから」
「ごめんね、桃寧ちゃん」
 謝る遼の口調は、別段申し訳なさそうでもなかった。桃寧は伊織に再びカメラバッグを持たせると、遼の手を引いて「次の衣装に変えましょう」と洋館に向かって歩き出す。揺れる白いワンピースに、深い緑色をしたバラの葉が一枚ついていた。
「何の話をしてたの、遼さんと」
 遼が更衣室に入っている間、伊織が廊下のベンチに腰掛けていると、桃寧が近づいてきて尋ねた。
「特に何も」
「何も?」
「別に、話すようなこともないし」
 ベンチが少し揺れて、桃寧が伊織の隣に腰掛ける。伊織はちらりと、アイシャドウでピンク色に染まっている桃寧の目を見た。
「徳田、どこで知り合ったの? 久米さんと」
「SNS。……不健全って思った?」
「別に? 今どき、普通だろ」
 桃寧はリュックからペットボトルを取り出し、キャップを開けて中の麦茶を飲んだ。ごく、ごく、と音を立てて、喉が上下する。伊織は何ということもなく、その様子を眺めた。
 そう、何ということもなかった。女性である桃寧と一緒にいても、友人である以上の感情は特に湧き上がってこない。伊織の中で、桃寧はあくまでも大学の同期生で、それ以上でも以下でもなかった。
 では、遼はどうだろう。伊織は廊下の壁を眺めながら、さっきバラ園の中を駆けていた遼の姿を、ぼんやり思い浮かべた。白いワンピースから覗く脚、悪戯をした子どものような笑み、首筋を滑り落ちていく汗のしずく。それら全てが『久米さん』であって、そして伊織が知っている『久米さん』とは違っていた。
 ワンピースの裾がひらめいて、白い腿が覗いた瞬間。
「……ッ」
 何か悦のようなものが、ぞわりと伊織の背筋を震わせた。いけない。こんなことを、バイト先の先輩にこんな感情を抱いては。
 桃寧が怪訝そうな顔をして、伊織を見る。
「どうかした?」
「いや、何も……」
「お待たせ」
 更衣室のドアが開いて、遼が姿を見せた。少女性の強いシフォンワンピースから打って変わって、今度はゴシック調の少年貴族といったスタイルだ。黒いジャケットにグレーのベストと黒いハーフパンツ、白いシャツには黒いリボンタイを合わせ、グレーの靴下は革のソックスガーターで留めている。足元は黒いローファー。
「ソックスガーターを留めるのに、時間がかかっちゃって。こんなの普段使わないものね」
 ベンチから立ち上がった桃寧が近づいて、着こなしにおかしなところがないかを確認する。伊織はベンチに腰掛けたまま、遼を上から下までゆっくりと眺めた。これはこれで、と思う。さっきのワンピース姿の方が伊織としては好みだが、ハーフパンツもよく似合っていた。
 ゴシックなデザインのステッキも借りてきた遼は漫画から飛び出してきたようで、そしてバラ園によく似合っていた。先ほどよりもアイラインを強調したメイクは、凛とした雰囲気を遼に纏わせ、より少年らしく見せる。桃寧は先ほどよりも気に入ったのか、夢中でシャッターを切っていた。白や黄色のバラよりも、赤いバラの方が合っていると言って、赤いバラばかりを背景にして撮影した。
 伊織はスマートフォンを、チノパンの尻ポケットに突っ込んだままだった。なぜか先ほどよりも、写真を撮りたいような気持ちにはならず、伊織自身も含めた三人分の荷物持ちになることを決めて、モデルとカメラマンの後ろをついて歩いた。
「撮らなくてよかったの?」
 遼に尋ねられて、ようやく一枚だけ、伊織は洋館の廊下で遼の写真を撮った。


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