違いは揺らぎになる
こんにちは。
ayです。
私は最近、あることのために、自分や人の心が動いた瞬間や出来事を蓄積するということをしています。
そんなことをしていると自分の心の揺らぎもまるで他の誰かが自分を観察しているように客観視できる気がします。
ある日曜日、予期せぬことで自分の心に揺らぎが起こったのをはっきり認知しました。
それは
【自分と相手が決定的に違うこと】
ただそれだけでした。
よく昔から、日本は同質化を良しとする文化である、マジョリティが正とされ、マイノリティは負として扱われがちな世の中であると言われてきました。
そんな世界で育ってきた私も、いつのまにか【違い】をその衝撃なしに受け止められなくなっていたのかもしれませんでした。
それも、表立った違いではなくふとした瞬間に現れる価値観の違い。
目に見える違いではなく、目に見えないところでふと襲う違いが、よりそのものを大きく見せるのでした。
近年の社会は、違いに対して寛容になりつつあり、寛容なものが寛容でないものを攻撃したり、寛容でないものが寛容なものや当事者を意図してもしくは意図せず攻撃し傷つける。
そんな声をよく目や耳にします。
同一が良しとされてきた社会だからこそ、変革には時間が必要で、それは痛みや犠牲を伴うものなのだと痛感させられます。
ほんの小さな違いや歪みにさえ、時として揺らいでしまうのに、大きな違いを受け入れるなんてことが言えるのか、自分の小ささが身に染みた出来事でした。
では。
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