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『ボードリヤールという生きかた』も、あった

塚原史『ボードリヤールという生きかた』NTT出版 2005年

ボードリヤール(1929 - 2007年)。現代思想に大きな影響を与えた。ポストモダンの旗手とも言われる。Wikipedia の説明を見てみよう。

1962年、(略)
1966年、(略)
1977年、『誘惑論序説――フーコーを忘れよう』を発表。ミッシェル・フーコーの怒りを買う。1986年、ナンテール教授を辞任。
2007年3月6日、パリの自宅で死去。77歳。

Wikipedia「ジャン・ボードリヤール」より抜粋

さすがにこれでは簡潔だ。彼の著作『シミュラークルとシミュレーション』(1981年)は日本でも話題となり、80年代以降のカウンターカルチャーを彩った思想としてハイソの象徴的よりどころに。「コード化」「オリジナルなきコピー」これ言っときゃ格好がつく、そんなムーブメントも。
それはさておき、本書は「ボードリヤールの入門書」とのこと。
「蜜と乳のかわりに、ケチャップとプラスチックの上をネオンが流れる、現代の理想郷」などというサイバーパンクのような情景も語られている。
以下、具体的に見てみよう。

気になる言葉

・アンビアンス:『物の体系』1968年より。物の配置による「雰囲気」。人が物に与えた機能は分解し、物が主体的に人の行動を誘導する。(p45)
【ほんの余談】アンビエントミュージックを知らしめたブライアン・イーノ『Ambient 1: Music for Airports』がリリースされたのは1978年。

・モノと消費:象徴としてのモノ、記号としてのモノ。消費は、記号としてのモノと結びついてなされる。消費は、常に欠如に基づいていて果てしがない(蕩尽)。(p44、49〜50、51、64、他)

・振りをする:重要語。モース『贈与論』1925年でのポトラッチ(ネイティブアメリカンの過剰な贈答をしあう儀礼)論から。「振り」という語の多重性に注目したい。(p58)

過剰エクセ、蕩尽、濫費・消尽デパンス:シビれる。バタイユ。果てしない詰め込みと際限のない消費から見えてくるものがある。(p59、60)

・フロイトの夢:消費行動とはモノにめぐり合うための夢か。夢と日常の類比。つまり消費行動の影にかくれた無意識、その幻想性と仮想性。もはや消費の目的は食べることだけではない。(p62、63)
→ 欲求の充足から「差異」による充足へ(p83)

・差異化:差異のシステムという文脈に沿って、実はコードに服従しているにすぎない行為。すべてはモノを通じてレーンを走り分岐しているのみ。自分という主体の喪失。(p78〜80)

・モノと人の逆転:①主体と客体の逆転 ②個性における逆転
あらかじめ用意されたモノから選択し組み合わせているだけの個性。(p83)

・砕け散った鏡に映る自分:パウル・ヴェゲナー『プラハの大学生』(悪魔と取引し鏡に映る姿を失くした学生。その鏡像が勝手な行動をするのに耐えかねて銃で撃つ。鏡が砕け、学生も倒れる。鏡片を手に取ると最期の自分が映っている)。(p88)

・超モノという化け物:「消費はひとつの神話である」「消費のフレーズと反フレーズが一体となって神話が出来上がる」(p90)
モノ化したみずからを打ち砕け! 氾濫と解体の始まりを期待している。

・偽の引用:引用元なき引用、著者の戯言。どう考えても旧約聖書にシミュラークルが出てくるとは思えないが、これがシミュレーションの裏返しになっているという仕掛けか。(p130)

・神は死んだ:(ニーチェ)ではなく、神はハイパーリアルになった。現代におけるニヒリズムは、宙吊りのまま消えることのない透明なニヒリズム。(p144)

・シミュラークル:模造、生産、シミュレーション。ハイパーリアリティとして世界を物質的・観念的に終わらせるもの。(p104〜113、144)

結局、シミュラークルとは

シミュラークルの歴史的展開 <バロック→産業革命→現代>
①模造:権力による記号の独占を新興ブルジョワジーが模倣によって解放。
②生産:大量生産による差異の消失、等価性。底が浅い。
③シミュレーション:オリジナルなしに「差異の変調」によって様々な形態が生み出される。本物・偽物などの対立が消失。また破壊する者はその破壊対象と共立する。0と1ですべてを作り出すことが可能というライプニッツの二進法的な。

なお、<バロック→産業革命→現代>は、
<自然→商品→構造>であり、
<模倣化→工業化→コード化>あるいは、
<クラフト→マニュファクト→コンストラクト>と換言できそうである。
最終的にオリジナルは消滅、同時に模倣という概念も失われ、模倣の模倣が世界をおおいつくす。シミュラークルもウィルスのように進化する?
【余談】昨今、AIのあり方についての議論が盛んであるが、シミュラークルの最終段階にさしかかっている現在、どの議論にも一抹の虚しさを感じてしまうのだがどうだろうか。

シミュラークルとは、現実の記号コード化操作。3つの時代変化、そのそれぞれの影で作用しているもの、あるいは作用そのもの。一般には「模造」と訳されるが、それでは不十分であろう。消費社会における人とモノの立場の逆転をベースに、模造品の背後に後退したオリジナルの残像とともに立ち上がる概念だと私は思う。そういう悲哀がある。
ボードリヤールはそうした現状に、一撃を加え突破していく新時代の揺動を期待しているのである。

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