「作者同士の交流」と孤立

 今をさかのぼること20年ほど前、俺は2chという掲示板で架空鉄道の話をみんなとしていました。いろいろありましたが、当時はとても楽しかったと思っています。でなければ何年も掲示板に張り付いていないでしょう
 その結果作者同士の交流も生まれて、いろいろなお付き合いもできましたしその中でいろいろ楽しい思い出もあるのですが、同時に孤立感というのが結構出てきました
 自分の興味の中心は彦島電鉄を見ていただいてもわかる通り車両です。しかも車両の機械部分に偏っています。空想のありえないシステムを組んでありえない走りを妄想する。そんな楽しみかたですね
 たとえばSELDのクルマとMBSA-1のクルマがつないで、SELD側でブレーキをかけたときの反応とかそういう面白さが欲しいなと思うわけです。SAPの圧をデジタル変換してHRDA-1側に電気信号で送る、それをHRDA-1がアナログ変換してBC圧を設定し、それをデジタル変換してブレーキ指令を発する
 ここ笑うところです。いやもうなんでこんなアホξことやってんねん、ってかんじですよね。このときのHRDA-1側の乗り心地を想像するとホント笑えます
 でも、大多数の人は笑えない。それどころかまずSELDって何? HRDA-1ってなんなん? って話になる。スタート地点がここからになるとブレーキとは何ぞやって話から始まって実にかったるい話になるわけです
 架空鉄道の世界では車両は主流ではありませんから仕方がないと言えば仕方がないし、自分の趣味は輪をかけて人口が少ないのでそういった話をすることは諦めざるを得ません。それよりもみんなが得意なジャンルの話を聞いて自分の苦手な部分を補足するのが有用ではないか? って思ったんですね
 まあ当然ですがそうなれば、今度はそのジャンルに詳しい人からすればスタートラインがえらく後ろに行ってしまって、面白かった話が一気にかったるくなるんです。つまり同じ架鉄趣味をしているのに向いている方向はまるで違っており、俺は集団の中で孤立しているだけだったわけです
 架鉄の趣味を嗜んでいる人のほとんどは、ギアリングが4.69だろうが4.46だろうがどうでもいいと思います。たった歯数1枚の違いですし。しかしその歯数1枚が大きな影響を及ぼすのが俺の架鉄です
 逆に路線の成立過程がその後の路線網に大きな影響を与える架鉄というのはいくつもありますが、俺の架鉄の場合成立過程はまったく影響がありません。曲線半径と勾配とポイントの番数さえ決まれば、歴史などどうでもよいという考えですね
 このように、同じジャンルでも接点がほとんどなくなってしまうと「この界隈にいる理由」を急速に見失います。自分はそうでした。興味のない人の前で自分の興味を一席ぶったところで相手は退屈でしょうし「あーこいつのおしゃべり早く終わんねーかなー」と思ってるかもしれません
 そう考え始めたあたりから、集団に属するのが急につらくなりました
 結果として現在は「いかなる集団・団体にも属さない」を基本方針とし、個人対個人以上の関係を構築しないことを徹底するようになりました。寂しくないと言えばうそになりますが、それでも「集団の中にぽつんと置かれた異物感」よりは気楽になりました
 サイト作りにもそれは表れており、現在は自分のやりたいことしかやってません。かつては車両に興味がない人でも読み物として楽しめるよう茶番とかサイドストーリーとかもいれていましたが、それもやめました。世界の雰囲気を出すためにこまめに名物とか特産品とか考えていましたが、これもやめました。信じられないかもしれませんが、2000年代の俺の架鉄は「お笑い要素」が売りくらいに思われていました。彦島電鉄も俺にとっては笑える要素がそれなりにあるのですが、まあ大半の人にはわからないと思います
 なので人によっては「サマンサの架鉄つまんなくなったな」って思われているかもしれませんが、自分の満足度はそれなりに高くなっています
 孤立、案外悪くないなと思いました