万人に「べつに死んでもいいけど悲しすぎる」と思っています。

 某戯曲の某登場人物が放った「人を救いたいんだ」という言葉が重たく頭に響いています。自分を救うためにまずは他人を救うんだ。他人の幸せにどこまで私が介入していいのかな?


恋人に「べつに死んでもいいけど悲しすぎる」の思想を語ったら、「死なないで」と言われました。あなたがいる以上死ぬ予定はないわよ、と思いました。私の確かな希死念慮をあなたがやさしく包んでくれる今があるからそれで。いっぱい死にたくなっても、それ以上のやさしさを感じるからそれで。


私には全く自信が無い、可愛いとか好きとか言われても。
見た目が可愛いわけでもなく、スタイルがいいわけでもなく、性格が良いわけでもなければ性格が可愛いわけでもない。

なんかしんどくなってダイエット用のサプリ買いました。ルッキズムと劣等感と日々闘っています。急に全てがダメになって恋人のことを突き放してしまうかもしれないと思うと、自分の消極的攻撃性が怖く、ますます自信がなくなっていきます。

ただ恋人がとてつもなく誠実であることは確かで、とてつもなく誠実な恋人がなぜか私と交際してくれているという事実も確かで、そんな恋人が遊びで私と付き合うわけが無いからこそ、
「じゃあなんで?!どこ?!私が?!」
となって結構処理落ちしています、常に。

先日言われた「君がどうして俺のことそんなに好きなのか理解できない」という言葉が呪いのようにとぐろを巻いて脳みそに絡まって離れない。
「お前俺の事そんなに知らんやろ」というのが純度100の本音でしょうね、確かに、知らないことが多すぎる気がするけど、全身を使って知ろうとはしているのよ
知っている知識全部使ってでも恋人のことを愛しちゃだめなんだろうか。


私が救われたいから他人を救うし、私が愛されたいから他人を愛す、という返報性の原理を利用した下心も、なくはないです。愛情を恋人にしっかり見せることで、その愛情を私に返してもらいたい。逆も然りで、恋人の誠実さには誠実な愛情で返したいなと思っています。

“返す”とか、返すとかいうその受動的すぎる行為、それもやめたい、カップルなんてどちらかが能動的であることを諦めては破滅の一途を辿るのみですから、知らんけど。


これは全国民に問いたい、たとえばあなたのことを「良い人!誠実だね!」と褒めたとする、そしたら私の前では良い人でなくてはならない、誠実でなくてはならない、そう思いませんか。
「可愛いね」と言われたら、可愛くあり続けなければならないって思いませんか。

 私はそれを恋人に強いているのではないかってすごく不安になるんです、私が恋人の自由を阻害し、恋人が誠実であり可愛くあるように恋人の人生にレールを敷き、レールの外に生える草木を折ることを禁じているように感じるのです。
あなたの誠実さと可愛さを愛しているけれど、別にその誠実さと可愛さを放棄してもいいんだよ、と言いたい。
たまには脇の草木を折って、レールの外に轍をつけて欲しい。道無き道を進んで行ったとしても私は恋人の後を密かに追って、その変化もまた愛すのでしょう。

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