家庭教師ヒットマンREBORNから読む「呪い」とクソデカ感情を抱く男たちの話

まずはこのご時世、誰一人欠けることなく全公演を走りぬき、素晴らしい体験を届けてくれたthe STAGEの演者・スタッフ、関係者のみなさまに感謝申し上げます。
今回はスピンオフ小説の舞台化ということで、ヴァリアーの過去とディーノの過去に焦点を当てた作品だった。直接的な舞台の感想ではないが、今回の観劇を通して少しだけ以前よりも考え至ったことや、前回の家族像からの考察では書ききれなかったことを、綴っておきたいと思う。

前回の記事はこちら→https://note.com/samesameko/n/n106fe9993718

【血の呪い】
長年、腑に落ちないセリフがあった。XANXUSのリング戦における「てめえら全員呪い殺してやる」というセリフだ。例えば、マーモンのように幻術を使うなどオカルティックな戦術を取っている人物ならまだわかる。だがXANXUSは、ご存じの通りかなりの武闘派である。明確な権力や暴力を求め、それによってのし上がってきた実力者である。そのXANXUSが、「呪い殺す」と表現したことが、私には正直不思議でならなかった。しかし今回、隠し弾の舞台をみたことで1つ思い至ったことがある。
前回の家族像からの考察で書いたが、リング戦で最終的に描かれるのは「血筋による選別」であった。また、今回の隠し弾『跳ね馬爆走!』においても9代目の実子であるという理由で、嫌がるディーノに家庭教師をつけ、マフィア関係の子どもが多く通う学校に通わせ、10代目にさせるべく教育していた。本人は嫌がっているうえに、ヘナチョコと称されるほど見込みはなかった(ただし、持ち前の優しさや気さくさ、住民からの慕われっぷりなど、キャバッローネが目指す“地域に根差した任侠さん”の理想像に近くはあるし、ツナと違ってマフィアの一家の長子として生まれたことと親の期待に自覚的ではある)。そして継承されるボスの証のイレズミ。ツナが10代目候補になった理由も、ボンゴレのボスに必要とされる絶対条件も「血」であった。かつ、REBORNの作品内では沈黙の掟として紹介されるオメルタは、マフィア世界における十戒、別名「血の掟」という。マフィア世界における「血」の概念は、もはや、家族の縁やゆるやかな繋がりをこえた「呪い」なのではないだろうか。
そこで振り返って、「血筋による選別」に漏れたXANXUSの「呪い殺してやる」というセリフである。お前たちがとらわれている「血」という「呪い」。あえての「呪い殺す」というワードチョイスには、揶揄や意趣返しの意図が込められていたのかもしれない。そう思うと、少し違和感が消えるような気がした。

大いなる余談だが、「キャバッローネが目指す“地域に根差した任侠さん”」の観点から考えるボンゴレファミリーの在り方について。『X-炎』のオレガノの報告書で、「正式に認められた10代目沢田綱吉のもとで、これからファミリーに救う闇は浄化されていくことになる」「間違いなくボンゴレファミリーは正しい未来へと歩いて行ける」という記述がある。だから!10代の普通の少年に!!9代ぶんのマフィアの闇を!!!背負わすんじゃありません!!!!
作中の描写で、ボンゴレファミリーはかなり大規模かつ歴史のある組織であることは何度か言われている。ちなみにキャバッローネは弱小ファミリーであったのをディーノの代で大いなる躍進を遂げ5000のファミリーを抱えるまでに成長したとのことで、ディーノの手腕が凄すぎる。そんなキャバッローネを同盟ファミリーに持つ、さらに大きな一家、ボンゴレファミリー。しかし、独立暗殺部隊といいつつ9代目の嫡男がボスになったり、門外顧問といいつつその息子が10代目候補であったりとおそろしくずぶずぶの組織、とは友人の言だがまさにその通りである。おそらく、組織が大きくなりすぎて、全体管理がうまくいっていないのが長年の課題なのだろう。だからこそ、ゆりかごの件にしても、シモンファミリーの件にしても、どうしても生まれる組織の闇を抱えるようになり、中枢の人間たちは、始まりであるⅠ世たちの自警団時代“強きを挫き弱きを助く任侠さん”の姿に戻そうと、ボンゴレファミリーという組織に変革を求めていると考えられる。大きくなりすぎた世襲組織って大体どこか枝葉は腐るしだんだん澱も溜まるよね、例えばホールディングス体制にでもしてみたらいいんじゃないかな、知らんけど。だからこそ、Ⅰ世の血筋を求め、およそマフィアらしくない沢田綱吉に、救いの光を見出したのだろう。でもだからって、中学生男子に全部背負わせるんじゃありません!ちゃんとしろ大人!!

【XANXUSにクソデカ感情を向ける男たち】
『X-炎』を読んだ当時は特に何も思わなかったが、今回板の上で人間が演じたことによって、異常性が際立ったシーンがあった。スクアーロとマーモンがモスカの設計図を手に入れたシーンだ。例のアレを手に入れた2人は、さてこれから我らを待つボスのもとへ、と帰ろうとして、スクアーロがふと左腕の嫌な痛みを訴える。すわ、XANXUSに何か危機が…!?という引きで終わるこのシーン。ちょっと待てえ!わたしの心のノブが叫んどる!
思い出していただきたいのだが、スクアーロの左手は、剣帝テュールとの決闘を前にスクアーロ自身が「左手を持たない剣帝の技を理解するため」切り落としたものだ。そしてその切り落とした左腕と、さらに己の髪に、XANXUSの野望の成就を願掛けした。勝手に。ここ、友人の「伸びないほうを切って伸びるほうを切らない判断どういうこと?」の一言が忘れられない。ほんまそれ。例えば、XANXUSがその腕を切り落とした、ないし切らせたならまだしも、スクアーロが勝手に切って勝手に願掛けした腕である。その腕が痛む→XANXUSに何かあった!?という発想、双子の不思議シンクロ現象でもあるまいし、ちょっと恐ろしくはないだろうか。なにゆえそんな怖い発想をするスペルビ・スクアーロ。※推しです。
オッタビオ制裁後、XANXUSのもとにヴァリアーの面々が集合したシーンでもスクアーロは「焦らせやがって」と呆れ笑いのような表情で登場する。XANXUS的には全然心当たりないから、は?なにが?状態じゃないのこれ。だってスクアーロが勝手に腕の痛みでシンクロ感じて焦っただけでは。え…怖…※推しです。
フィクションの描写で“古傷が痛む→嫌な予感”が常套手段であることは重々承知している。そのうえでやはり、自分で切って勝手に他人の野望を願掛けした腕に、その他人の生死の行方を感じ取ろうとする行為は、あまりにも一方通行であまりにもクソデカ感情すぎやしないだろうかと思った次第です。冷静に、お前の野望に賭けた!っつってある日知人が左腕切り落としてきたら、めっちゃびびる。しかもそいつニッコニコで自慢げに報告してくる。怖い。※推しです。
クソデカ感情男といえば、レヴィも同様だ。過去が全く語られないため果たしてどれほど劇的な出会いだったのか我々は想像するしかないが、レヴィはXANXUSに心酔し、神のごとく崇めている。彼の行動原理はいつも1つ、ボスにもっと褒められたい、だ。金や地位や名誉はどうでもいい、ボスの役に立てればそれでいい、そのためには死すら厭わない。美しい忠誠心ではあるが、XANXUSの人生に己の命を懸けちゃう男その2である。武士か。真面目で実直で頑張り屋だなあと思います。
こんなやべえやつら隣に平然と置いている(しかもわりと自由にさせている)なんて、XANXUSって実はめっちゃ器でかいのでは…?と思ったりもしたが、今回の『X-炎』舞台化によりまた1つ解像度が上がったことがある。XANXUSとオッタビオの対話からは、断罪者と裏切り者というだけではない関係性がみえたように思う。ゆりかご事件の反乱について、「オッタビオだけは幹部陣の中で参加しなかった」と語られている。つまりXANXUSは反逆計画を明かし、協力を求める程度にはオッタビオを信頼していたのだ。オッタビオは当時から出世の手段として考えていたとしても。誤解なきように書いておきますが、オッタビオはオッタビオであの生きるための打算とか変わり身とか、とてもリアルで私は好きです。母には(ボンゴレファミリーに養子に出される形で)捨てられ、養父である9代目にも裏切られ、さらにはオッタビオという世話係兼腹心のような男にも利用され、いやこれXANXUSを取り巻く人間関係が地獄すぎやしないだろうか。いい加減にしてくれお前ら!あまりに不憫だ!であれば、自分にクソデカ感情を向ける異常な人間たちは、なんだこいつ…と思ったとしても絶対に自分を裏切らないという1点において、彼にとってはある種の救いであり拠り所だったのかもしれない。運命の出会いに乾杯(サルーテ)。

【スペルビ・スクアーロという自己完結型人間】
※繰り返しお伝えしておきますが、推しです。
さて、スクアーロだが、1つ上の項目でも触れたように引くほどのクソデカ感情を一方通行投げっぱなしジャーマンしている。レヴィのほうが「褒められたい」というささやかではあるが見返りやXANXUSからのリアクションを期待しているぶんだけまだ健全だ。なんというか、恐ろしく自己完結した男だなと思った。
しかもこの男、あれだけ豪語しておきながら、二度もXANXUSの目の前で死んでいるのである。リング戦では鮫に食われ、アルコバレーノ編の総力戦では心臓をえぐられている。結果的にどちらも生きていたが、そういうこっちの心臓にも悪いことやめなさいよアンタほんと!確かにスクアーロが勝手にした約定であり勝手にした願掛けではあるが、ではそれがXANXUSになんの影響も与えていないと思っているのだろうか。リング戦の「過去を1つ清算できた」という、まったく清算できていないであろう態度などから推しはかるに、XANXUSが望んだことでも強要したことでもないが、己に差し出されたものになんの感慨も持たないわけではない。しかしスクアーロは、ものすごく重いものを勝手に差し出すだけ差し出して、おそらく、相手が受け取るか否かはどうでもいいのだ。自分が懸けた時点で、スクアーロの中ではもう終わっているのだろう。究極の自己完結型人間だなと思う。
マーモンのリング戦や『X-炎』のスクアーロ評を聞くに、スペルビ・スクアーロは頭の良い男だ。レヴィとルッスーリアを組ませる判断など、戦闘力だけではなく、人間性や性格特性を踏まえた布陣を考えていたことから、観察力・洞察力もそれなりに優れていると思われる。ヴァリアー8か国語話せるわけだし、おバカなわけでは当然ないはずだ。ここぞとばかりに推しを褒める。えっへん。しかし、対XANXUSコミュニケーションにおいては、下手ばかりうっている気がする。上記のクソデカ感情投げっぱなしジャーマンも、同じである。ではなぜそんなことが起きるのか。答えは、自己完結型にありがちな言語コミュニケーションの不足と、甘えの構造だと思う。
スペルビ・スクアーロ、もしかすると、圧倒的に言葉が足りないのではないか。おしゃべりが下手なのではなく、勝手に「これは説明しなくてもいいこと」と脳内で完結してしまっていることが多いのではないか。人間、言わないと伝わらないことって結構あるが、そもそも彼は、伝える必要がない、あるいは伝わらなくてもいいと思っている節さえある気がする。彼が言葉を発した時点で、彼の中では終わっており、相手がどう受け取ったかはさほど興味がないのかもしれない。自己満足。かつ、対XANXUSに関してはさらにそこに「あいつならわかるだろう」という甘えがあるのではないだろうか。だからこそ余計に言葉も思慮も足りず、殴られるオチになっているように思う。ちなみにこれはXANXUS側のコミュニケーションも、同じくスクアーロへの甘えがあるからこそ、暴力という返答手段に訴えている気がする。ある種噛み合っているが噛み合っていない2人。XANXUSの繊細さをスクアーロが理解する日はおそらくこないし、XANXUSは自分の繊細さに寄り添われたいわけでもないので、スクアーロのそういうところに案外救われているのかもしれない、と思った。

【チェルベッロ機関の謎】
話はずいぶん変わるが、チェルベッロ機関について最後に少しだけ触れておく。
『X-炎』のオレガノの報告書に「チェルベッロ機関と名乗る者たちのように、XANXUSの協力者と思しき人間たち」という記述があるが、疑問が残る。果たしてチェルベッロ機関は、本当にXANXUSの協力者だったのか。
リング戦の最中は、情報を十分に伝えない、敬称をつけないなど、確かにどうみてもツナ側に不利な動きばかりしている様子が、あまりに露骨で目立つ。リング戦の後、彼女たちは未来編にてツナたちと敵対するミルフィオーレの入江正一の側近として再登場する。入江正一がボンゴレ側に寝返ったことで彼女たちは射殺されてしまうが、やはり未来編でもツナたちの敵陣営に与していると思しき立ち位置であった。しかし大空戦終結間際、敗北が決定したXANXUSに彼女たちは「あなたは役割を終えた」と意味深に告げたことは、解決していない謎としてだれもが覚えていることだろう。ここで1つ、妄想に近い仮説を立ててみた。
チェルベッロ機関は、ボンゴレの正当な後継者を決めるときにあらわれる、時系列という概念をこえた審判なのではないだろうか。リング戦では、沢田綱吉という男がボンゴレ10代目としてふさわしいか裁定するためにXANXUSという試練を設置した。その途中で心が折れたり敗北したり、たとえ死んだとしても、それは次期ボスにふさわしくなかっただけのこと。未来編では、10代目ボスとなった世界で、果たして沢田綱吉が“己の死”を乗り越えられるかという試練において、10代目ボスとしてふさわしい人間かをはかっていた。であれば、大空戦での「望み通りだ、予言が叶って満足か」「すべては決まっていたこと、あたなは役割を終えた」という会話に整合性が出てくる、ような気がする。
しかしその正体は結局作中では明らかにされず、謎のまま終わってしまった。残念。

the STAGEは次回作の予告などもなく、もしかするといったんここで終わりなのかもしれない。ただ、アニメも連載も何年も前に終わった作品が舞台化で再び脚光を浴び、スピンオフ小説まで舞台になり、当時好きだった同志や新しく知ってくれた同志とともに家庭教師ヒットマンREBORNの世界を楽しむことができたこの奇跡に、心からの感謝を伝えたい。なにより、4作品どの舞台からもキャストやスタッフなど制作陣の作品に対する愛情の深さを感じたことが、ファンとして嬉しかった。声高に愛を叫ばなくとも、演者の所作やセリフ回し、舞台装置や演出、パンフレットやフライヤー1つとっても、にじみ出るものをファンは敏感に感じ取る(ちょっとめんどくさい)生き物である。本当にありがとうございました、とても幸せな体験でした。
リボステってカーテンコールで、「みんな、お仕事お疲れ様!」「明日から学校や仕事で大変なこともあると思うけど、リボステが頑張る元気になったら嬉しい」みたいな、観客への労いの言葉を添えてくれることがよくあるのも、ちょっと特徴的だなって思います。自分がみた回がたまたまそういうコメントだったのかもしれないけど。我々をリボステファミリーの一員として、ちゃんと見てくれているような気がしてそれも嬉しかった。めっちゃ元気もらってるよ、仕事頑張るよ、と思いながら家に帰っています。よーし、明日も仕事、死ぬ気で頑張るぞー!!うそ、そこそこ頑張る。みなさんもそこそこ生きていきましょう。

家庭教師ヒットマンREBORNを愛する世界中の同志へ、Spero di rivederti presto!