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足ひとつ

 仕事中、何も思考する事も無く、作業に没頭しているとそこに、無慈悲に潰れた蠅の死骸が放置されていた。気持ちが悪くなり、死骸を片付けようとするが、それは、強く床に張り付き、剥がれようとはしない。小さな箒を使っても、雑巾で擦ろうとも、それは取れなかった。

 助けてくれ。

 擦った際に捲れ上がった蠅の足はそう言う。

「助けてくれって言われたって、あなたもう死んでるでしょう?」

 足は微かに動き、同じ事をもう一度言った。

「あなたね、いくら足が動こうが死んでるの。どうしようも無いのよ。それに、助けろってどうすれば良いのよ」

 銀の甲殻と硬い毛が密集している”それ”は足を一つ上げ、まだ助けを請う。動きたい、羽はどこだ、とそれは言う。

「床にこびり付く位に潰されて、それでも空を飛びたいの?」

 私は優雅に空を飛んでいた、と蠅は言う。お前達が一生を掛けても、到達する事の無い空海を私は飛び、泳いだのだ。そもそも、お前達に私が潰されるとでも思うのか。さあ、早く私を牢獄から出せ。と足は言うのだ。

「足ひとつでも、あなたは饒舌なのね」

 死骸は、出せ、出せ、と何度も叫ぶ。その度、足は一度ずつ頷き、少女の指を迎えようと、主張する。

「あなたは何処に行きたいの?親の所?それとも妻と子供が待つ家?それとも」

 空だ。空だ。空だ。

「なるほど、もういいわ」

 少女は足を素手で摘み、ゆっくりと持ち上げた。プツと音に成らない小さな感覚が、指に伝わる。足は、母体から千切れた瞬間一つ頷くと、何も言わず少女の指へ体を預ける。

「へぇ、気持ち悪いと思ったけど意外と気にならないものね。それで、私はどうすれば良いのかしら?」

 足は何も云わず、動かない。

「なら、別にこれで良いでしょう。どこまでも飛んで行きなさい。」

 少女は、目の前にあった小さな紙切れで、小さな翼を作った。足はそれに乗り、空海へ飛び立つ。

 空だ。お前達が鉄の塊を飛ばす事でしか存在のできない空だ。あぁ、空だ。

 足は、遠くへ、遠くへ行った。10秒間の長い旅へ。

 少女は、偶然窓辺に居合わせた蟻を指で弾いた。

「貴方もこれで空を飛んだ事になるのかしらね。」

 足の声は、もう聞こえなくなっていた。

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