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猪突猛進【智恵子抄】

何度も読んでいる『智恵子抄』をまた読んでいました。
この作品と出会ったきっかけは私の誕生日です。
私は平成13年10月5日午前3時41分生まれです。(やたら自分に詳しい)

そうです。
レモン忌です。
自分の誕生日がレモン忌であることを知ったのは私が詩を書き始めた小学3年生ですが、実際に初めて『智恵子抄』を読んだのは高校生の頃でした。

当時既に統合失調症を患っていた私は、レモン忌の人(智恵子さん)が同じ病気であることをとある出来事から知ります。
そして読んでいくうちに統合失調症、詩人の他にも共通点を見つけました。

生まれた時間と今度は光太郎さんの亡くなった時間が数分違いという事と、智恵子さんの亡くなった年が昭和13年であることを知り、ますますこの作品が気になり始めます。
それから数年経ち、何度も様々な感想を抱きながら読んできた私の読書感想文です。


初めに私の家にある高村夫妻について書かれている作品は角川春樹事務所から出ている『智恵子抄』と、草野心平さんの随筆も収録されている新潮社版『智恵子抄』
それから『光太郎智恵子』という書簡集のみです。
様々な研究書やその他の文献などは一切読んでおりません。
この読書感想文はあくまでも読書感想文であり、何の研究でもありません。

「ね、君、僕はどうすればいいの、智恵子が死んだら僕どうしたらいいの?僕は生きられない。智恵子が死んだら僕はとても生きて行けない。どうすればいいの?え?」

新潮文庫『智恵子抄』より「悲しみは光と化す」

草野心平さんの書いたこの文章を読んだ時に、高村光太郎さんは死なないだろうと思いました。
肉体の話では無く芸術家としての精神が。
高村光太郎という人間についても芸術家についても何の知識も無いので、本当にただの妄想になりますが、詩を読んだ後世の人間のひとりから想像する高村光太郎という像は真実芸術家だと思います。
彼は人間ではないように感じられました。

「ね、僕は一体どうすればいいの?僕の仕事だって、智恵子が死んだら、誰一人見てくれるものがないじゃない?」

新潮文庫『智恵子抄』より「悲しみは光と化す」

彼にとって、智恵子さんという存在は妻であり、作品であり、読者であり……様々な形をしていたのかと想像しました。
この密度の高い関係性から向けられる眼差しや、当時の性差、そして夫妻共に芸術家という形は智恵子さんにとっては良くも悪くもあったんじゃないかとも感じました。


智恵子さんを詩人の精神や肉体に取り込む行為を詩作と呼ぶのでは?


これが私の頭に浮かんだ疑問です。
彼にとってどうであったかは知らないけど、いち読者として『智恵子抄』は食事のように感じます。
追悼詩集ではなく、出会った当初から高村智恵子さんの生き様を全て芸術に書き写してきた光太郎さんの『智恵子抄』
まるで生き写しのような1冊です。

芸術家が人を作品として描く行為は、そうでもしなければ乗り越えられない事実がそこにあったからなのか、後世にその存在を遺したいと思ったのか分かりません。
もしかすれば、どんなに悲しいことでも嬉しいことでも生命の全てを作品にしてしまうのが芸術家なのかもしれません。

私はこの作品が「真実の愛」と謳われているのを見る度に首を傾げてしまうのです。
「愛」は同じ熱量の眼差しで同じものを見つめることを指すと私は考えています。
けれども『智恵子抄』から感じられるのは智恵子さんを通して行われ続ける美の追求、そして光太郎さんの視点で彫刻のように形成されていく「高村智恵子」という存在です。

この作品を純愛だと言われても私が腑に落ちないのはそこだと思います。
あくまでもこの愛の価値観は私のものであり、高村夫妻にとっての愛の価値観が重なっていればそれは純愛かもしれません。
他人が計るものではないので、この読書感想文自体全てがナンセンスだと思います。

最後に、私は智恵子さんを描き続けた光太郎さんの作品で最も好きなのは『ばけもの屋敷』です。
それから『智恵子抄』も良いですが『道程』も好きです。


※作品として『智恵子抄』が大好きなので批判ではありません。
※この記事の全てはいち読者である私の想像上の高村夫妻のお話です。
※くどいようですがあくまで個人の感想です。

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