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猪突猛進【chieko's sky】

以前、高村光太郎さんの『智恵子抄』についての感想記事を書きました。

そしてまた今回は『智恵子抄』の記事第二弾です。

好きな日本文学を洋書で読みたいと考えて早数ヶ月。
英語が分からない私にとって洋書を購入したとて宇宙語です。
ですが、詩集なら特にどんな挿絵や表紙絵なのだろうという興味本位から推し日本文学の洋書を探しています。

そして気づきました。
中也さんとか心平さんは翻訳しづらそうじゃない?
翻訳がしやすそう(イメージ)なの光太郎さんじゃない?と。

ということで調べ始めました。

【検索】takamura kotaro poem's book
【検索】takamurakotaro chieko's poem
【検索】takamurakotaro chieko poems

等々、様々な知っている単語をGoogleに入れました。
そして辿り着いた先は英語圏で書籍化されていた《chieko's sky》でした。
恐らく「智恵子は東京に空が無いといふ」というフレーズで有名な『あどけない話』から来ているタイトルだと思います。

ですが私の捻くれた解釈では「ひとりの女性を半永久的に閉じ込めた芸術作品のタイトルがchieko's sky!?」と思いました。

阿多多羅山あたたらやまの山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。

「あどけない話」高村光太郎

という作品から来ていると思えばなんてことないタイトルですが、私が『智恵子抄』から感じたものは狂気にも似た芸術への執着心と、ひとりの女性の人権を無視した芸術上の「智恵子」に対する崇拝でした。
その集大成である『智恵子抄』の英語タイトルが智恵子の空だなんて……。

光太郎さんは『人に』という詩の中では智恵子さんに来た縁談について空を旅してゆく鳥の行方をじっと見ているようなと心情を描いていました。
この詩集の全体的な輪郭に対して芸術家として、そしてまたひとりの人間としても鳥かごの中で羽を切られ飛び方さえも忘れた鳥のようなイメージを抱いているので、何だかもう英語タイトルを知った時は様々な感情がこみ上げてきました。


そもそも初めて『智恵子抄』を読んだときは私も純愛だとか感じたのですが、何度も読めば読むほど違和感が出てきたのです。
果たしてこれは純愛なのだろうか?と。
ふたりにとっての「純愛」の形がどうであるかは分かりませんが、作品からは当時の日本に女性という性別の身分の低さを感じます。

先程も少し名前を出しましたが『人に』という作品。
こちらは縁談が来た智恵子さんのことを思って書いた作品だそうです。
「いやなんです、あなたのいつてしまふのが」と始まるこよ詩は途中からなかなかに悍ましい感情の起伏を感じるのです。

なぜそうたやすく
さあ何といいましょう──まあ言わば
その身を売る気になれるんでしょう
あなたはその身を売るんです
ひとりのせかいから
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何という醜悪事でしょう

智恵子抄より「人に」

の辺りです。
怖いんですよ、勢いと熱が。
その後の「まるでそうチシアンの描いた絵が鶴巻町へ買物に出るのです」の辺りも智恵子さんを崇高な絵に例えて、縁談の相手を智恵子さんの本当の価値を理解しないくだらない男と蔑んでいるように感じます。

光太郎さんの芸術的審美眼には智恵子さんが映っていたのかもしれませんが、ひとりの人間としての目には映っていなかったのかな等考えます。

自分以外の人の所へ嫁ぐことを考えた時にこういった言葉が並べられる……。
あくまでも一個人の感想ではありますが、現代の女性である私にとっては女性を尊重する意識が感じられません。

高村光太郎さんの『智恵子抄』を読むと女性の権利について考えます。

さて、ここまで何だか批判的にも捉えられるようなことばかり書いています感想文ですが、光太郎さんの表現はやはり厳かな美しさを感じます。
ひとつの妥協も許さないような芸術への追求心が筆を進ませていたのかな。

私は高村夫妻の知り合いでも無いし、同じ時代の文化や価値観を知って生きているわけでもありません。
だからこれは本当に拙い妄想8割の読書感想文なんです。

憶測というものは罪悪ですね。

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