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嫌われ者の法則

個としての人間は、自然に太刀打ちするにはあまりにも弱い。どんな人間でもアマゾンのど真ん中に丸裸で一人で取り残されたなら、猛獣に襲われて死ぬか、感染症にかかって死ぬか、食料を調達できずに死ぬだろう。はるか昔、巨大なマンモスを集団で打ち倒すことから始まった人間は現在に至るまで、古今東西ありとあらゆる人々の知識をシェアし、互いに争い、また助け合いながら発展を遂げてきた。社会という巨大な群れを形成することでようやく、人類という種はこの地球上に存在する権利を勝ち取ったのだ。

そして人間は法を作った。種を確実に存続させるためには、それを達成するための人員を選出する必要があり、相応しくない者は間引く必要があるからだ。社会の一員として生きる以上は行動にある程度の制限がかかってくる。他人の財産や命をむやみに脅かそうとする者がそこらじゅうに溢れていたら、安定した社会を実現するのは不可能だ。大前提として人類は集団で自然に立ち向かわなければならない。その目的を阻害するような問題分子は速やかに排除しなければならない。個として無力な我々の存在は、社会からの赦しがなくては有り得ない。

しかし個人と社会がダイレクトに接続されているわけではない。社会と自分との間には自分が普段生活しながらよく顔を合わせ、会話などをして関わる領域が存在する。例えばよく行く食堂やコンビニ、学校や職場などで出会う人々だ。彼らは社会の一部であると同時に個人でもある。我々は彼らと共に時間を過ごしながら、お互いに監視させられている。ルールやマナーといったものは、この小さな社会の中で役に立つ。自分が彼らに好意を持たれれば普段の生活は快適で、豊かなものになる。逆にこの中でそれらを無視した場合、彼らから向けられる感情は批判的なものとなり、時には攻撃の対象になるかもしれない。悲しいかなこの世界では自分は安全な場所にいながら他者を痛めつけることが簡単になってしまった。

我々は直接関わりのない大きな社会の出来事には心を動かされにくい。反対に身近な人々からの評価は、それがたとえ大きな社会にとって何の役に立たなかったとしてもとても敏感に感じ取ることができる。人に嫌われることと、巨大な群れのなかで得られる評価はイコールでは結ばれないかもしれない。どちらの社会でもうまくやっていくには、決して少なくない数の制約を守りながら生きていかなければならない。

我々は、誰かに嫌われることを恐れるあまりに、自分にとって本当に必要なものが見えなくなってはいないだろうか。

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