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虐待と体罰と躾

Twitterで「いきすぎた暴力はよくないけど、命に関わる危険がある時、そのほか例外的な場面において、手を出すことは必要だと思う」と言う旨のtweetを拝見した。

以前なら私もそう考えていただろう、とここは素直に白状する。
しかし今は違う。
理由はいくつかあるが、その中に私が「人に教える立場」を目指していた時に受けた講義の存在がある。
今日はその当時の話をしようと思う。



40人程の学生が押し込められたその教室では「体罰」をテーマに議論が行われていた。
お互いの肩がぶつかるほどの密度にもかかわらず私語はなくどの学生も前方に注目していた。
彼らの視線の先の黒板には

【親から子に対する体罰】

・必要

・場合によっては必要

・必要ない

以上の選択肢とその隣に挙手した学生の数が書かれていた。
そして教師は一番上の「必要」を黒板消しで消した。
それはこの教室には体罰を全面的に支持する学生は皆無であることを意味した。
それもそのはず。この講義は教員になるための必須科目で、学生たちは「体罰を容認する」思想が教員への道を閉ざす危険なものであることを知っていたからだ。

教師は口を開き「それでは、それぞれの意見を聞かせてください」と言った。
少しざわめいた後、あちこちで遠慮がちに手が挙がった。
メガネをかけた青年が当てられた。
彼は簡単な自己紹介をしたあと自分が「場合によっては必要」を選択した理由を話しはじめた。

「緊急時とか、特に子どもが車道に飛び出したり命の危険がある時、口で言っても逼迫さが伝わらないと思うので傷がつかない程度の体罰は必要だと思います。具体的には頬を叩いたりとかです。以上です」

まばらな拍手を送られ、彼は後頭部をかきながら着席した。
「他には」と言う教師の言葉と同時に別な学生が当てられた。
前に発言した学生に習い自己紹介と自身の立場を明らかにしたあとハキハキとした話し方で語った。

「私は、自分の子が誰かに暴力をふるってしまった時に、自分のしたことの重大さに気づかせるために同じことを子にするべきだと思います。自分が与えた痛みを同じ痛みで理解させる必要があるからです。以上です」

先ほどよりも大きな拍手が起こった。
その後も「場合によっては必要派」による主張が続いた。

・命に関わる可能性が高いとき

・誰かを加害したとき

・口で言い聞かせてもわからないとき

などの理由があれば、教師では絶対に禁じられていても「保護者であれば」体罰を認めるべきだ。というのが彼らの大まかな言い分だった。

条件付き体罰賛成派の言葉を順番に黒板に書き出しながら、何かに気がついた様子で教師は振り向いた。
「この、体罰は必要ないと思う4人はどこにいる?ちょっと話を聞かせてくれないか」

それまで伸ばされていた無数の手が引っ込んだ。そしてその持ち主たちは首を回しながらその4人が誰なのかを探し始めた。
少し時間をおいて、一人の生徒が当てられた。
「どうして君は、体罰が必要ないと思うのか教えてくれないか」
教師の質問に対し、その学生は蚊の鳴くような声で何かを言った。
その学生の周辺でどっと笑いが起きた。
首を伸ばしてその様子を伺っていた学生の何人かは眉を潜めた。
「静かに!
ごめんな、もう少し大きな声でもう一度言ってくれ。先生耳があまりよくないんだ」
教師は自分の指で耳をこじるジェスチャーをした。
そして聞こえてきたのは「僕は一度も体罰を親から受けたことがないから」と言う主張だった。教師は満足そうに微笑みながらその言葉を黒板に書いた。
そしてその学生に感化されたように他の3人も発言した。
言い方はそれぞれに違ったが、彼らに共通したのは「生まれてからこれまでに体罰を受けたことがない」ということだった。

「よし、じゃあここで先生からの質問。この中で親から体罰を受けたことがある人、数えるからちょっと手を挙げてみてくれ」
教師のその言葉を受けて、その4人を除いた学生たちが手を挙げ始めた。
私も手を挙げた。
教師は顎をあげてブツブツと呟きながらしばらく教室の隅から隅まで見渡した後、この講義を受ける学生の半数以上とされる数字を黒板に書いた。
教室の中がざわめいた。

「よし、じゃあ議論に戻るがここで提案だ。現状だと“場合によっては必要”派が半数以上を占めている。これだと“必要ない”派が不利なので、先生は今から“必要ない”の立場で意見を言おうと思う。繰り返すがこの講義は正解を決めるのが目的ではなく“様々な考え方を導き出す”ことが目的だ。だから皆もできるだけ柔軟に考えるようにしてくれ」
口々に賛成の声が上がり、議論は続行された。

そして10分もしないうちに、「場合によっては必要」派の学生たちは教師の反対意見にぐうの音も出なくなってしまった。

「車道に飛び出すなどの命の危険に関わるときは、腕を掴む・服を引っ張るなどで最悪の事態は防ぐことができるがそれらは体罰ではない。命の危険が回避された上で体罰を行うことは子どもにとって心の傷を増やすことにしかならない」

「体罰によって痛みを理解させなくても、“しっぺ、デコピン、馬場チョップ”などの手遊びの中で痛みを知る機会がある。親から子への体罰は多くの場合一方通行なので痛みを理解させるという理由は成立しない」

「口で言ってもわからないのは、往々にして言い方が悪い場合が多い。話が通じないからという理由で他人に暴力を振るうことは犯罪なのだから、親子であれば許されるという理屈はおかしい。最後まで暴力に頼らずに育てることが、言葉を与えられたものの責任だと思う」

それまでの主張がことごとく論破されてしまった条件付き賛成派の学生たちは、だんだんと暗いムードになっていった。
そんな中「先生」と声が上がった。

「自分が体罰を受けたことがないから必要ないというのは、あまりにも想像力がない主張だと思いますが、いかがでしょうか先生」

先ほど「子が加害した場合に体罰は有効」と発言した学生が切り込んだ。

「いやいや、これは重要なことだよ。子どもがこうして大学に通うようになるまで体罰を受けずに育てられてきたというのは“体罰がなくても立派に大人になれる”というエビデンスなのだから。想像力は関係ないよね」

ムッとしたような顔をしてその学生は着席した。
私はその発言を受けて思うところがあり、まっすぐ挙手した。

「はい、🐇さん」

「h学部g学科の🐇です。私は“場合によっては必要”と考えています。理由は私こそが“体罰を受けたことで立派な大人になった”例だと考えているからです。私は幼少期に同級生に暴力を振るうのをやめられませんでした。でも親から体罰を繰り返し受けているうちにやめられるようになったのです。なので“体罰が求められる場合もある”と思います。以上です」
私の着席と同時に力強い拍手が鳴り響いた。
先程発言した学生と目があった。心なしか彼女の目に涙が浮かんでいるように見えた。

教師は嬉しそうな様子で口を開いた。
「ありがとう🐇さん。しかしそれなら僕も言わせてもらう。僕には2人の子どもがいるが、僕は彼らが生まれてから一度も体罰をしたことがない。彼らの命が危険だった時も、彼らが誰かを傷つけた時も、彼らに口で言ってもなかなか理解してもらえなかった時もね。
どうしてかといえば僕は体罰に強く反対しているからだ。教師が生徒に体罰をしてはいけないのは“禁止されているから”だと考えているなら大きな間違いだと僕は思う。
体罰は相手の権利を奪う行為だ。親や教師から行われる“躾”という名の体罰は、子どもの自由を奪う。
痛みや恐怖で押さえつけられた教育は本物じゃない。言うことを聞かない子どもに体罰をしたら、言うことを聞かなければ傷つけられると思って親に従うようになる。顔色を伺うようになる。そんな行為は許してはいけないんだ。
僕は初めに“正解を決めることは目的じゃない”と言った。だからこれはあくまで僕の意見だ。しかし君たちは今まさに“先生の言うこと”というバイアスがかかっていると思う。
だからこそあえて強調するが“強い立場にいるからこそ、逆らうことのできない構造を作る体罰のような行いは決してしてはいけない”それが僕の意見です」

終業を知らせるチャイムが鳴った。
出席を証明するためのコメントペーパーに鉛筆を走らせながら、私は先程言われた言葉について考えていた。
気づけば教室には私を含めた数人しかおらず、あれだけ窮屈だった教室が広く感じた。とうに他の学生は提出して退出した様子だった。
私の前の席の椅子が引かれた音がきこえ、顔を上げるとそこには教師がいた。

「🐇、さっきはごめんな」
申し訳なさそうに彼はいった。
「え、なんのことです?」と私はとぼけてみせた。
「みんなの前でこき下ろすような真似してしまったから。さっき別な子にも謝ってきたんだ。いい議論ができると思って調子に乗りすぎた。申し訳ない」
そう言って再び頭を下げる姿を見ていたら、なぜだか涙が出てきた。

「🐇は優しい子なんだな。体罰を否定すると自分の親を否定するような気がしたんだろ?🐇は親のことを庇ってたんだよな。ごめんな、辛い思いをさせたよな」

否定できなかった。絶対にそんなことないとは言えなかった自分が悔しかった。
私は自分が体罰のおかげで真っ当になったとはこれっぽっちも思っていなかった。
幼少期、親から受けた暴力はそのまま弟へと向かい、弟のストレスはクラスメイトに向かった。いわゆる負の連鎖を生み出した事実を知らないふりをすることはできなかった。
時間が経つにつれて私の自制が効くようになって、収まっただけの話だった。
自分の親を誇りに思うその気持ちは自己暗示の賜物であること、それを見抜かれてしまったのが苦しかったのだ。

私は涙を拭いながらコメントペーパーを提出し、教師に礼を言って教室を後にした。


4年前にこの講義を受けた私は結局教員の道を選ばなかったが、この日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。
必要な体罰なんて存在しないことをこの数十分間の出来事をきっかけに、私自身の経験から学ぶことができた。
私の痛みはどれ一つとして必要ではなかった。あれは体罰や躾という名の虐待であったと、私が認めなければならないのだと。

この話を書くきっかけになったユーザーの主張を私は否定しない。
しかしかつて虐待を受けていた子どもの一人としては、ここで負の連鎖を断ち切らねばならないと強く思っている。
それにはあらゆる体罰を否定しなければいけない。綺麗事だと言われても、私はその綺麗事を貫かなければならない。
表面の傷は治っても、心に受けた傷は一生消えないのだから。

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