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お母さん、あのね。

まだ私がランドセルを背負うようになる前の話だ。
私の通っていた幼稚園では父兄によるお楽しみ会と呼ばれる行事が一年に数回あった。文字通り親たちが自分の子どもと楽しむための会で、歌を歌いながら踊ったり、大きな積み木を重ねたり、大人と子どもが入り混じって園庭でかけっこをしたり、その時々に合った内容を親子で楽しむといったものだった。
この時は大人たちが人形劇をするらしいということを前もって知らされていた。劇の台本は子どもたちがよく知っている絵本などを基にすることが多かったため、昼食のあとの休み時間は親たちが何を選んだのかを予想するのが私のクラスの日課となった。
おおきなかぶ、がらがらどん、おむすびころりん、カラスのパンやさん、どろぼうがっこう…当てずっぽうながらも、皆正解がどれであろうと構わない様子でひたすら絵本の題名をあげていた。

そんな中私は自分たちの親が何を演じるのかをなんとなく察知していた。前から夜型で寝つきの悪かった私は、毎晩母親に寝かしつけられた後にこっそり自分の子供部屋を抜け出してドアの隙間から両親の部屋を盗み見ていた。母親は青い帽子に赤いボーダーの服を着た男の子の人形を縫いながら、劇の台詞と思われる文章をなんどもなんども言い直し、時たまそばで煙草を吹かしている父親に意見を乞うのだ。
彼女が手に持っていたその人形は、その頃私が大好きで母親に繰り返し読み聞かせをせがんだ本の主人公だった。我が親ながらよくできていると思ったし、同時にもっと近くに寄ってみたいとも思った。しかし夜な夜な私に知られないように劇の練習をする母親の胸中を思い、幼い私は本番を楽しみに待つという選択をしたのだ。
だから私は毎日昼休みに行われるクイズ大会には参加せず、当日どんな劇が見られるんだろうという顔をしながらやり過ごしていた。

「僕知ってる!エルマーの冒険だよ!」
教室に甲高い声が響いた。
皆が声の主に注目した。お弁当のフォークを握りしめ、椅子に片足をかけて再び叫ぶ彼の姿があった。チビで隙っ歯のA君だった。
それまで口々に劇の予想をしていたクラスメイトたちは一斉にA君に詰め寄った。誰もが A君だけが知っていた秘密に目を輝かせていた。突如人気者と化したA君は得意げに詳細を早口で話し始めた。自分のお母さんが話してくれたこと、Bちゃんのお母さんはなんの役だとか、C君とD君のお母さんが小道具を作っているとか、ゴリラの着ぐるみをかぶる予定のお母さんがいる、だとか。

クラスのみんながキラキラした表情でA君の話に耳を傾けることになった。私以外は。

A君は正直なところ普段は日陰者だった。もちろんこの狭い幼稚園の中での話だが。いつも人気になる子は誰にでも優しかったり、足が速かったり、お調子者だったり、何か特出したものがあった。私は体が大きく腕っ節が強かったため人気者にはなれなかったが、ボス猿的な存在感があったためあまり無視されるようなことはなかった。しかし彼の場合は、いつもなら声を張り上げても一度では気がつかれないくらい存在感の薄い男の子だった。だから今回この最高機密情報をついうっかり漏らしてしまったのに違いない。普段から友だちからの注目を集める存在に憧れていたのだろう。私はそう思い込もうとした、そのはずだった。

「それでね、エルマーは…」
A君が開きかけたその口に勢いよく拳を突っ込んだ。マズいと思ったのもつかの間、一変して教室内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
床に倒れこんで泣き叫ぶA君。大きな音を立ててひっくり返る椅子。音に驚いて悲鳴を上げる女子たち。先生に告げ口(チクリ)しに行く仲良しコンビ。A君を助け起こそうともせずに私に覚えたての野次をとばす男子たち。私はA君のよだれがついた右の拳をチラリとみて、気持ち悪いと思っていた。
独特の匂いを放つそれにも、泣き続けるA君を無視する男子にも、大人を呼ぶことでしか解決する方法がわからないバカコンビにも、いちいち大げさに騒ぎ立てる女子にも、そして何よりも、自分は一切悪いことをした覚えがないとでも言わんばかりにメソメソ泣くA君に腹が立った。
数分後に息を切らして先生が教室にやってきたときにも、A君は沸騰したヤカンのようにピーピー鳴っていた。
少し冷静になった私は「また母親が呼び出されるんだろうな」と思った。今週に入って2回目だった。反射的に暴力を振るってしまう自分を情けなく思ったし、暴力沙汰を起こす度に「友達を傷つけない」と先生や親の前で固く誓っているのに、その約束をすぐに破ってしまう自分に嫌気がさした。
そして案の定母親は呼び出された。騒ぎが少しおさまった頃に、事件を整理するために先生がA君と私双方の言い分を聞く機会をわざわざ作ってくれたのだが、外野がうるさく騒ぎ立てたのにやる気をなくした私はだんまりを決め込んだ。先生は困った顔をしながら、泣きじゃくるA君と好き勝手に喋りまくる他の子どもたちの証言をつなぎ合わせて、とりあえず私が悪いという結論を導き出した。

帰り際、A君と彼のお母さんの前で自分の母親と二人で頭を下げた。一方的な謝罪の場だった。
「先生とお話しするから、遊んで待っててね」
そう言いながら先生と面談室に入っていった母親の背中を惨めな気持ちで見送った。その時の私には胸に溜まった気持ちのやりようがわからなかった。
日が沈み星が出てきた空の下で、少女は母親の帰りを待ちながら小石を蹴っ飛ばした。

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