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格式とは

以前、親戚のおばさんがウチに来たときに
「本家に行くと格式が高くて最初から最後まで顔が上げられなかった」
という「昔話」をしていたのを耳にした。
ウチの姑が後々
「あの家は格式が高いんだよ」
「すごいんだから」
と口にする度に「格式ですかー」と笑って流していたのだが
それにしても格式って…ナニ時代?とモヤモヤしていた。
何しろその話は昭和三十年代のことだったのだ。
ちなみに、おばさんもおばあちゃんも昭和ひとけた生まれ。
こちとら生まれも育ちも北海道の5代目である。
さてそこで
なぜ自分がそのハナシでモヤモヤしていたのかを考え続けたところ
自分は身分制としての格式には「ナンだこりゃ」であっても
文化の違いと見れば納得できるから、とわかった。

身分違いでの婚姻はできなかった等制度としての格式はあった、のだが
そこはそれ、制度だから抜け道もあったワケで。
格下の人を一旦、格の釣り合う家に養子に入れて
改めて同格同士の婚姻にした、だとか。

すでに制度としての身分制は無くなってはいたものの
家の格による文化の違いはまだまだあって
それぞれがそれぞれの「文化」に折り合うことは難しいことだったろうと。
文化と言うと何やら難しいが
「そこでの当たり前」と考えるとわかりやすい。
これはナカナカ、付け焼刃では身に付かないもので
「マイフェアレディ」の競馬場のイライザですな。
落語の「たらちね」は長屋の住人のところになぜか宮仕えをしていた女性がヨメに来るハナシでそこで巻き起こる文化摩擦を笑いにしているが
シンデレラは王子様と結婚して苦労したに違いない。

人間は、一人一人が違う文化を背負って育てられ
長じては自分自身で、自分の文化を紡ぎ出していくのだ。
そういえば
昔、作家の司馬遼太郎が「家制度というのは会社組織」だと。
なるほど、社長がいて重役がいてヒラがいて…そう言われれば納得できる。
「家」という組織を存続させるために様々な「規則」がある、と。
だから確かに「血筋」にはやかましいが「ムコ養子」などという手段もアリだぞ、と。この組織を形作る原則を「文化」と言い換えてもいいだろう。
さてそこで
人間、二人寄れば組織をなし、何らかの仕事をする。
組織内での仕事のやり方が、すなわち「文化」である。(自説)
大抵の組織内・組織間・人間関係のトラブルは
つまりは組織間・組織内の文化摩擦なのではないか。
職場でも組織でも家庭でも衝突や行き違いは珍しくないが
始めから「文化が違う」モノ同士なのだと考えれば
「いらぬ摩擦」は起きにくいと思う。
いらぬ摩擦、というのは、違う文化を認めない
要するに、不寛容さによる摩擦の事だ。
とかく「違う」ことを認めない段階で足踏みをしてしまうもので
そうすると成るモノも成らなくなるワケで
それではあまりにも「もったいない」ではないか。

身近な例で言うと夫婦がまさに人類最小の組織で何十年と違う育ち方をしてきた他人同士が共同生活をするのだから構成員二名の組織内で文化摩擦が起きるのは当たり前で
互いに「アンタがおかしい!」と言い合っていてはラチが明かない。
また、長い長い年月の間多くの家庭を悩ませてきた「嫁姑問題」は、違う育ち方をしてきた同士に加えて世代間の違いに親子関係も絡み合い、まことに奇怪千万複雑怪奇な様相を呈する。
「みんな違って大変だ」がホントだと思うので
「みんな違う」ことを前提にして
じゃあどうすればいい?と現実的に考えるのが合理的。
大抵のことは仕事として考えられるし。
それでもモヤモヤは抱えるのが人間として「当たり前」なので
決してすっきりはしないのだと覚悟を決めて
あとはみなさんで落語でも聴きましょうよ。
ちなみに
聞くところによると私の母の姑は、何かというと
「この無礼者」
「落ちぶれたりと言えどもナントカ藩カントカの-」
とやったそうで
これが封建時代の最後の「しっぽ」の世代だったのだろうと。
こちらは昭和20年前後のことである。

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