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1882年の鑑定書

勉強

帝国日本皇帝陛下之特命全権公使 陸軍少将 井田譲 という
いかめしい肩書の人が書いた文書を読んだことがあった。
これはいわゆる鑑定書で
伊達政宗が支倉常長に託したセビーリャ市宛ての文書がホンモノである
という文書である。
(この伊達政宗の文書は今もスペインのセビーリャ市に保存されている)
井田全権公使にしてみれば
明治の世になって多くの人がはるばる欧米へと視察に出かけたり留学したり
それはそれは新しい世を実感していたのが
なんと明治15年のその時から260年も前の伊達政宗の時代に
はるばる日本からここスペインのセビーリャまでやってきた日本人がいたことはとてつもなく物凄い・驚くべきことで
彼の驚きと感動は「豪邁不羈」と記された言葉に込められている。
で、ナンで井田全権公使が驚いたかというと
今では教科書に載っている、慶應年間にキリスト教世界との通商を求めた支倉常長と宣教師ルイス・ソテロとの世界一周の旅が、明治6年に岩倉具視の遣欧使節一行がイタリアのベネチアで支倉常長の残した書状を“発見”するまで、伊達藩の中で“マル秘”扱いだったから。
誰にも知られていなかった事だったので、岩倉具視一行はその文書が何のことやらわからずに悩んでしまったのである。
で、ナンで“マル秘”だったかというと
江戸時代の始めからキリスト教を禁止・弾圧していたから。
支倉常長がローマ法王から洗礼を受けた等々絶対に表沙汰にしてはイケナイのだ。
伊達政宗はキリスト教徒弾圧の流れの中で“ワンチャンス”を狙ってメキシコとの通商を狙ったのだが、所詮“ワンチャンス”で、家康がはっきりとキリスト教を拒絶する姿勢を固めたことで望みは断たれ、支倉常長は7年にわたる世界一周の旅で成果を出すことなく日本に帰って失意の中1年ほどで死去している。
で、棄教したのだと。
(せっかくローマ法王に洗礼してもらったのに)
これ、大手企業の地方の一支店長の野望とその野望を実現することに自らの家の再興を託して奔走した挙句に挫折する一人の男の物語として池井戸潤が書いたらすごいだろうなあ、と思う。
家康にせよ政宗にせよ
キリスト教世界とのキリスト教抜きでの通商を望んでいたのだが
キリスト教国としてはキリスト教を認めることが通商の絶対条件で
交渉は平行線だったのである。
そして
明治の世の中になったからと言ってキリスト教が解禁になった
ワケではない。
これは岩倉具視の一行が欧米と通商条約の交渉をした時に
欧米はやはりキリスト教の解禁を条約改正の条件に出してきたので
その時になって・ついに認めたのだ。
これが明治6年のことで・井田全権公使が文書を見たのが明治15年。
伊達政宗の野心と支倉常長の苦難の旅を歴史に埋もれさせたのも
再び感動とともに世に出てこられたのも通商条約に絡んでの
キリスト教を認めるか認めないかの政治的判断だったワケで
時代は流れ・世は変わるのだということを改めて痛感させるのでござる。

賑やかなクリスマスの色々が目に入ってきて
ふと、思い出して書いた。

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