あらゆる存在は根源の道へ帰ろうとする

地球上に存在するものは、あらゆるものが根源へ帰ろうとする。

根源というのは「宇宙が存在している外側の空間」と呼んでいるつまり0というもので、虚無であり、何もないが、あらゆるものが詰まっている様である。

つまり地球上に存在している事物、生物というものは、この根源へ帰ろうとする性質がある。

今目の前にあるペットボトルも根源の道に帰ろうとしているのであるが、正確な表現としては根源の道(無)に帰ろうとするのだが、
それを邪魔しているのは「地球」という存在であり、「重力」であったり、「空気」という「外部要因」の働きである。
このペットボトルは根源の道(無)に帰りたいが「耐えている状態(生存)」とも言える。
この「耐えている状態(生存)」というのが存在しているという状況であり、存在しているものすべては耐え続けており根源へ帰ろうとしている。

つまり、このペットボトルは根源の道(無)であり続けたいと思うが、「外部要因」により押さえ込まれている状態である。

地球上に存在しているあらゆる事物は「外部要因」による抑圧を受けており、この抑圧というものが存在を存在たらしめるものである。
つまり存在しているものは全て耐えていると言えるのではないかということを前提として話していきたいと思う。

近年我々は宇宙への旅行を可能とし、宇宙での生活というものを実感するにあたり、宇宙の状態を知ることが出来つつあるが、我々にとって宇宙というものはまだまだ難解で、おそらく今後何百年も宇宙について研究する存在がいるのではないかと考えられる。

この宇宙の根源を考える前に我々はまず考えなければならないのが我々存在を抑圧している別の存在についての知識であったり作用というものをわかった上で我々は宇宙に行かねば宇宙においてはただ漂う存在でしかなくなってしまう

まずこの地球というもの自身が、我々を抑圧する巨大な「外部要因」であることを忘れてはならない。
そして、この地球に存在するものすべてが地球により抑圧されているが、抑圧されながらもその存在自身も他の存在に対して抑圧する性質を持つ。

これはある意味で「外部要因」が重なり合っていると言えるが、この存在はなぜ存在をしているのかと言うと、元々は根源の道(無)であったのだが何らか理由で根源の道(無)ではなくなったと考えられる。

宇宙はビッグバンから始まったと言われているがその爆発する前の状態は全くの「無」であったと言われている、
そしてビッグバンが起きた後に存在するこの宇宙は収縮し「無」に帰ると言われている、だからこそあらゆる存在も同時に「無」に帰ろうとする性質を含有しているのである。

今私の目の前にあるこのペットボトルは根源の道である「無」に帰ろうとしているのだが、それを抑圧し制限しているのが地球に存在する重力や空気なのである。

このペットボトルは根源の道(無)に帰ろうとしているのだが、しかし重力がこのペットボトルをこの地球上に縛り付ける、
そして空気によりペットボトルは腐食され、ペットボトルという存在を終える。
しかし分子レベルに分解されたとしても分子が地球の重力に引っ張られているため、地球上で分子が再構築され、また別のものに形成されるのである。
この輪廻は地球上に存在している時点で逃れることができないと考えられる。
しかし人間はこの重力を克服し空気空間から脱することに成功した。

ここで忘れてはいけないのがこの地球も根源の道に立ち帰ろうとしている途中であるということである。
宇宙が根源の道(無)に帰するなら、地球もまた根源の道(無)に帰する、そしてこのペットボトルも根源の道(無)に帰す、
そのような現象が延々と繰り返される、この事を2000年前に老子は悟り、無為を遂行する重要さを説いたのではないだろうか。

我々人間という存在を知るためにもここで述べた論証は非常に有効に働くのである。

つまりあらゆる存在は「外部要因」により規定され、その存在は「外部要因」により変質し変形することができるということである。
これはどのようなことかと言うと、例えば、この目の前にあるペットボトルは火に入れれば燃える深海に沈めれば縮む。この変質のあり方を見れば存在が「外部要因」によって変質可能であることを証明しているのではないか。


ペットボトルを火にくべて燃えるという状況はどのような現象か?


ペットボトルの周囲の「外部要因」である空気温度が上昇し、ペットボトルを構成する存在が「燃えたくなった」ので燃えたのである。
あらゆる存在の発火点が違うように、その存在がもえたくなる「外部要因」である温度は異なっています。(もしかしたら地球上で言う常温が発火点である存在があってもおかしくない。)
つまりその存在の振る舞いによる行為であり炎自身がそのものを燃やしたのではなく、その存在が「外部要因」の影響を受けることによってもえたくなり萌えたというこれまで考えられてきた定説とは多少違ったロジックで存在しているのではないかと考えると、人間存在も「外部要因」によってあらゆる性質に変質可能なのではないかと考えられます。

事実このようなことはあらゆる実験や事件によって実証されてきました、つまり人間は時間と共に「外部環境」により変質し、価値観が形成されるということである。

「生物的制限」(衣食住が無条件に満たされること)を超えた先にある、知りたいという根源的な欲求は、「生物的制限」を忘却することにより根源の道(無)に立ち帰ろうとしているのではないか。
しかし、「生物的制限」を超えない場合、生物的にただ生きようとしている様は、根源の道(無)を忘れ去ることができる。
つまり「人間」という生き物は忘却することで「幸福」が訪れると言えるのではないだろうか。


存在間の意思疎通

あらゆる「外部要因」を受けた存在が、他存在との意思の疎通により強力な同質性を得ることができる。

このペットボトルは根源の道に向かってただただ歩んでいるからではないだろうか。

だからこそ他の存在の言葉というものはただの音波でしかなく、このペットボトルは愚直に根源の道へ向かおうとしている、
だからこそ他存在からの介入に抗おうともしないし従おうともしない。

このペットボトルは人間とは違い根源の道を歩んでいる最中なのである。

では僕という人間はどうだ、分子的に構成されて思考を持ち宇宙へ行くことができるようになったが僕は根源への道を歩んでいるのだろうか。
僕はこのペットボトルよりも多くの時間を勉強に費やしてきたし生物的制限を越えようとしてきた。
しかしこのペットボトルと同じ道へ向かおうとしているのに、僕はペットボトルよりも雑念が多く外部要因に振り回され抗い従い服従させ服従してきたのではないだろうか。

僕たちが最終的に存在するのは果たして何のためなのかを多くの哲学者が考えてきたが、答えは出ていない。

しかし、あえて答えを出すとするならば、「宇宙とは何か」これを了解するために我々は存在しているのではないかと考えても良いのではないか。

しかし、人間は言う、「宇宙の根源を知ることで僕たちは幸せになれるのか」と、美味しい食べ物を食べて、フェラーリに乗って六本木ヒルズの最上階に住んで行くにも通じを従えて羊を従えて暮らしていけるのだろうか。

しかし僕から言わせてもらえれば、それは幸せの形ではなく「外部要因」に従ったただの結果でしかないのだ。
つまりそれが幸せだと刷り込まれれば、それが幸せになるのである。

根源の道は遠く険しい、そしてあらゆる生物が目指すべき結果であるが、我々がその域に到達したとしても何が起こるのかは「わからない」。
ここで言う「わからない」ということに最も価値があると僕は考えている。
この地球上で人間が規定した幸せは多くは予測可能で「わかる」のである、全てがGoogle 検索すれば「わかる」そのような幸せのかたちに我々は甘んじることができないのではないかと思う。
つまり見て聞くだけで「わかる」幸せであれば、それは幸せとは規定できないのではないかということである。

そのような「わからない」ものをわかろうとするということは「生物的制限」を超えなければ難しい。
だからこそ我々が地球上のあらゆる存在に先立って「生物的制限」「物質的制限」を超えることによって「わからない」というものをわかろうとするのではないか。

「生物的制限」を超えることによってあらゆる人間は働くために生きることになります。
つまりこれまでの人類とは違い、生きるために働くのではなことが、我々の存在を変質させる第一フェーズではないかと考えています。

「生物的制限」を越えた際、我々は何をするのか?

あらゆる「わからない」ものをわかろうとします。
わかろうとする時は研究し、分からないものを表現しようとする場合、アート的な表現をします。

このような文脈でアニメやゲームなどのサブカルチャーを考えてみると、人間が生み出したこれらの妄想は一貫してあるメッセージを訴えかけています。
それは分からないものをわかろうとしようとするということや、分からないものを分かりたいという気持ちです。

つまりアニメを最後まで見るのは分からないから見るのであり、 PUBG でドン勝(優勝すること)を狙いたいのはその時の心情が分からないからドン勝をしたいのではないでしょうか。
「なぜ生きるのか」という問いに答えるとしたら、自分が生きる未来が分からないから生きるのではないでしょうか。
全てを見通すことができれば生きていく理由などありません。
このことから人間は未来に向けて生きていくということがわかります、当たり前のことですが、私はハッとしました。
多くの人間は自己紹介をする時に、卒業した大学やこれまで接してきた有名人または有識者の話、これまで手がけたプロジェクトの話をする傾向があります。
自己紹介をする際、実現したい未来像を語る人はあまりいません。

あらゆる存在は根源の道という「わからないもの」に対して「わかろうとしている」ということが存在として現れているのではないかと、ペットボトルを見てて思いました。


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