がんばるますの権を他人に握らせるな

頑張り終えた瞬間が好きだと、ふと気付いた。
定期テスト後に友達とやったモンハン。カッコいいライブができた日の飲み会。大学院入試を終えて放心状態のまま食べたサブウェイ。なんとか書き上げた修論を出したその足で向かったいつもの研究室。新卒研修の成果発表を終えて眠い目を擦って見た夕陽。

今を覚えておきたいと意識的に思った時は、残念ながら覚えていないこともある。だが頑張り終えた直後に五感から流れ込んだ情報は、少しの間だけ鮮やかに脳に焼き付く。出来事の大小は問わず、強制的に録画と保存がなされるようだ。

「頑張る」とは、その人が何も考えずに生きている状態を基準にしてより良い状態へ遷移しようと無理することだ。目標の向きを定め、その理想状態に対して感じる魅力が主な燃料となる。
この「無理する」という部分が重要で、つまり当人の基準とつらさがあって初めて当人に頑張っているという認識が生まれる。
つらいことをしている自覚がない場合は、他人からどう見えようが頑張っていないことになる。やりたくてやっている他人を自分の価値基準で測っている危険信号かもしれない。
裏を返せば「頑張っていないね」と言われて不本意だと感じるなら、それは無理をしている。そのやり方で続けてよいものか再考する機会かもしれない。
しかし頑張れという励ましはつくづく責任感のない字面をしている。

この過程そのものにも喜びを感じられるような場合は、大変に運が良い。呼吸における二酸化炭素のように心身への負荷が伴うなかで、一部に再利用可能な心情も生成されることが往々にしてあるのだ。世に言うやり甲斐というやつで、すなわち無理強いされてはたまらない。

自分の場合は、常に少しだけ頑張るくらいならできる。しかし、決めたのにやらない自分も自分らしいと赦してしまう。自分以外から強制されてやっと完遂するこの怠惰な性格は、定期的に自己嫌悪の引き金になっている。

幸いご覧の通り、小さな記事を書く習慣はなんとか続いている。よほど自分の本を出版した状態が魅力的なようだ。

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