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一番の幸いは分からないけれど、一番の不幸は分かる気がする

今回はXのとあるポストを受けて、キングコング西田さんの書いたメッセージを読んでの自分の感想です。

因みにそのポストはこちら。
(また埋め込みがうまくいかないみたいです…)

https://x.com/jinji_990/status/1760056481838416236?s=61&t=MCbde_dkwqNhHk4p0Gm5BA

ここから感想文です。

私は「差」がある事を悪いとは思わない。

それでも自分と何かの「差を比べる」事は、悪循環の元だと思う。つまり、呪いやおもりを自分にかけるようなものだ。
お金多く持つ事、人に好かれる事、家庭を持つ事…人間には様々な幸せの形がある。
「何者かにならないといけない」も誰かの価値観の上にある、誰かの幸せの形なのだろう。
私から見れば承認欲求も、誰かの幸せの形に見える。だから誰かの幸せの形は否定しない。

けれど個人の幸せの根幹は、自分の「健やかさ」が元になっているのでは無いかと思う。
もし心や体が病めば、仕事を休み、誰かの世話になるだろう。
そうなると周囲にある幸せの形…お金や愛、家族も少なからずすり減って行く。
だから私はすり減る事が不幸の形では無いかと思う。
もしかすると一番の不幸の形とは、自分が誰かの幸せの形をすり減らす事では無いか?とも思う。

本文の中にある「会社や社会は何者でもない30代にチャンスを与えない…」はある意味で真実なのだろう。
それでも主語になっている会社や社会は、そもそも何者でも無い。
つまり実体のない、何者でもない何かの概念的な主語だ。

改めて自分の周りを見て欲しい。
私やあなたの周りにいる人達は概念だろうか。
そしてあなたが隣に居て欲しいのは、会社だろうか?社会だろうか。
恐らくそんな概念ではない。実在している人間では無いかな。
成功者と言う、実体の見えない概念を恨み続けるよりも、もっと自分や周りに寄り添う人生の方が、自分の幸せの形を見る事にならないだろうか。

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