主権者を疑う

 国民は「一人で三役を熱演している」とまず述べています(16~20頁)。

 まず、「主権者」としての役割。日本国憲法の前文を引用しています。 
 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
 つまり、「主権者」とは〈自分自身で主権を有することを勝手に宣言でき、それをこの世にしっかりと基礎づけするために、憲法を制定する始源的力〉を有しています(順序的に言えば、憲法制定があって、その権威づけのために見出された「有権者」なのですが)。

 そして、「有権者」。これは〈権力者を選び罷免するだけでなく、権力者そのものになることもできる〉と規定しています。
 
 最後に、「市民」。〈私的領域と政治的領域を媒介する市民社会のメンバーとして行動し、また社会システムをっさえる共通の負担を覚悟する〉存在であって、憲法12条を参照しています。
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」 つまり、〈「不断の努力」をする国民〉である、としています。
 
 そして、「すべての国民は、個人として尊重される」(憲法13条)というのですが、〈「主権者」の仮面をつけて演じるのは、劇の”開演”のときと”終演”の時に基本的に限られ(主権を有すると宣言するときと、憲法を制定するとき、だと思われ)〉、〈「主権者」の出番は基本的に「ない」と見るのが憲法の筋書き〉だと推測しています。
 
 「国民は個人として」と憲法には記載されていますが、主権者としての国民はどうなのでしょうか。
 
 〈個々の国民が主権者であるとして、その意志の集約された総体は果たして「具体的な人間」の意思といえるだろうか〉(122頁)と、それを疑問視しています。そして、〈国家統治の永続性を前提にすれば最高・最終の決断など不可能であり、むしろ未完の決定の連続体がうまく運ぶように、各国家機関に統治権限を配分し、それをまとめる”最高”機関をひとつ決めておけば済むのではないか〉(124頁)、つまり、統治では予想不可能な事態に直面することがあって、そのイレギュラーに対応するためにも、最高・最終の決断の拠り所となる主権(者)は弊害にさえなる、ともいえそうです。
 自身に主権があると憲法に記述する、ということは、その存在自体がフィクションである、と言っているのに等しいことでしょう。
 
 次に「有権者」として、についてです。これは「民主主義(選挙・多数決)」という側面をもちます。
 
 最初に確認しておくべきことは、〈選挙期間中に提示された公約や討論会での論調など(シュミットによれば「具体的内容」)は全く切り落とされ、議席数のみが主権的判断として蒸留される〉(172頁)ということは、投票されたのが「政策遂行者」としてではなく「立候補者」としてでの評価にある、ということです。しかし、主権者も代表者も〈選挙に勝つためには、選挙区の有権者の利害に引きずられ、所属政党の支配を受けざるをえないだろうが、それでも代表は「全体の奉仕者」であり「全国民の代表」〉(179頁)であることを忘れてしまい、支持してくれている集団の利益を優先する、という衆愚政治に走る、傾向をもちます。

民主主義はそもそも”衆愚”の危険を宿命的に内包しており、そのブレイクスルーの力を畏《おそ》れかつ期待する政治制度と理解しているので、(……)そもそも、国民投票を行う有権者はおろかであるが、選挙で人を選ぶ有権者は賢明であるとでもいうのであろうか。 

198~199頁

 そのためにこそ、代表者は「全体の奉仕者」であり「全国民の代表」という意識が必須であり、国民は「自由と権利」を不断の努力によって保持し、濫用してはならないのです。そして、チェック機能としての三権分立が必要なのは、いうまでもありません。

 そして、「市民」とは帯に記されているように「自由や権利を「不断の努力」でメンテする」という側面であるのだから、自由や権利を求める主体として「政治的批判」の運動が可能になります。そのための事例として「デモ」を取りあげています。

デモは示威行動であり、(……)しかし、市民になることは、デモの目標それ自体とはあまり関係がない。何を目指しているのか分からないが、とにかく知らない人たちの人流に溶け込むこと自体に意義があるのだ。 

250頁

 これをジュディス・バトラーの『アセンブリ』を参照して言い換えています。
 
不安定性は不平等にあてがわれている。不安定性は時に人々を貧困や死に直面させるので、この状況にある人たちは自分たちがみな可傷性(vulnerability)をかかえた存在であることを社会に認めてもらわなければならない。それを認めさすために身体を差し出すのがまさにデモなのだ。 

252頁

 どこの誰だかという帰属が消し去られた状態である〈「名刺交換をしないデモ」(小田実)こそが「無知のベール」(ジョン・ロールズ)〉(263頁)であり、その視点から新たな社会秩序を組み立てていくしかない、ということでしょう。

駒村圭吾『主権者を疑う 統治の主役は誰なのか?』ちくま新書 2023

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