インセストタブー

近親婚について、『法律学小辞典 第5版』(有斐閣)によると、〈優生学的配慮と倫理的見地から、一定範囲内の近親婚は禁止される〉、とされています。その「一定範囲内」とは、
イ 直系血族間(祖父母、父母、子、孫)
ロ 3親等内の傍系血族間(キョウダイ、オジ・メイ、オバ・オイ)
ハ 直系”姻族“間(ヨメ・シュウト、ムコ・シュウトメ)
であり、それは民法によって禁止されています。

ちなみに、一親等とは親子、二親等はキョウダイ・祖父母/孫、三親等はオジ/メイ・オバ/オイの間柄であり、直系姻族間での禁止というのは、義理の親子の関係が解消(つまり、子たちの離縁が成立)されれば、問題点は消滅します。そしてこれらは、近親者として、家族もしくはそれに類するものとして、規定されているわけですから、わざわざ婚姻関係を結ぶ必要があるのか、という疑問があります。夫婦と同等の権利が認められているのですから。

以前取り上げた、山内昶『タブーの謎を解く』では、タブーというものが、カオスとコスモスの境界への侵犯により生じる、とされており、その境界は流動的であり、文明化されるほど境界は有名無実となる、と指摘されていました。

で、今回は「インセスト」というタブーについて、です。それは、〈対象選択が例外的なだけであって、サディズムやマゾヒズムなどと違い、行為そのものとしては、必ずしも逸脱〉(18頁)していない、と言います。当然ですね。強要(力関係により逆らえない・マインドコントロール)がなく、冷静な(?)同意の上であれば、ただ性行為をしているだけなのですから。

近親婚が制定されるゆえんである、「優生学(この用語はどうかと思います)的配慮と倫理的見地」という先入観から、〈当人たちの合意の上で行われ、秘密のままで推移するのなら、少なくとも表面上、人の迷惑になることも、社会に積極的な害悪を流すこともない。しかも今日、避妊はきわめて容易となり、密室はいたるところに用意されている〉(18-9頁)という現状が、反転して導きだされます。

同性カップルのように、法的権利を求める必要はなく、親族として社会に認められていて、それで、セックスだけを密室内で秘密裏におこなっている、だけです。

イザナギ・イザナミというキョウダイ神による国生みなど、多くの神話ではキョウダイ婚に「特別なパワー」をもたせています。

 古代エジプト王朝のように近親婚がほとんど制度化されていた時代血縁者を娶ることは財産の散逸を防ぎ一家の結束を固めるという意味も含まれていた。極論を弄すれば、家族が自由な乱婚に近い状況にあったとしても、そのことでいっそう一致団結が高まることだって無いとはいえないだろう。 

60頁

どうしても私たちは、「家族」を個人と個人の関係(親子など)を固定的にとらえてしまいがちですが、古代エジプトの場合、近親婚はその親族のメンバーの平等な一員として、同質性を高めていたのだ、と考えられます。

肉親のあいだのブレーキで制御できるほどのものであれば、どうしてインセストのときには死罪のような極刑をもって処罰されねばならないのであろうか。(……)慣れという不確定なものでは、近親者とそうでない者との区別がつきにくいのではないだろうか。それに何よりも、「なじみ」の防壁が機能しているにしては、世の中にインセストタブーの違反例が多すぎるのではないだろうか。 

63-4頁

セックスという行為は、おたがいに無防備な状況で、相手に自分の身体をさらされていて、そして、そこでなされているのは、相手の身体への侵犯という「暴力的」なものです。しかし、それがなされる場合は、あらかじめ「なじみ」「信頼」がなければ、その行為に没頭することはできません。この両義性が、インセスト(同質性)をタブー視し(共食い)、かつ惹かれる、ということになるのかもしれません。

このことは、人間だけに「性」という欲望(幻想)がある、ために起きることです。〈インセストを人間の問題として、欲望と自制、衝迫と理性との際どい均衡のなかで捉えねばならないという気持ちはつねにある。人間において本能はすでに崩れたとする見方がむしろ正しく、事物との直接の接触を断たれ、いつも幻想に振り回されながら、放っておけば母や姉妹のうちに恋人を認めかねないのが人間の姿なのだ〉(87頁)

この人間が背負ってしまった「インセスト」のタブー視について、フレディ・M・ムーラー監督作品、映画『山の焚火』(1985年スイス)がとり上げられています(ちなみに最近は、お酒を飲みながら、あまり考えなくてもいい映画ばかり見ていますが、二十年近く前までは、シリアスな映画や古典映画が好みでしたので、もちろんこの作品も観ています)。

聾啞者の弟と、彼をいたわる知的な姉とのあいだに関係が生じ、姉は弟の子供を宿す。そのとき、よろこんで祝福を与えるのは敬虔なクリスチャンの母なのだ。神など眼中に無い粗野な父はやたらと激昂し息子と取っ組み合いになるのに。神を信じるとは、ときにはこの世の掟に反して、人の心の褶曲に寄り添うことなのであろう。 

122頁

おそらく、キリスト教の教えでは、この姉弟は神の怒りにふれ、罰せられることになるでしょうが、それは神がなされることなので、この世の掟で判断するべきではない。だから敬虔なクリスチャンである母は、目の前の受け入れがたい現実を受け入れ、寄り添うという選択をしたのだ、と思われます。

 もしそれが本来的に「悪」であるとしても、そういう悪を内在したものとして人間を捉えるしかないであろう。もともと性衝動という幽暗の大陸を抱えて生きるのが人間の宿命であり、その一角がインセスト願望で占められているのは否定しようもない。それに、性衝動には多少とも暴力性がつきものだとしても、家族のあいだだからこそ優しさが加わる場合がある考えて間違いになるわけでもないのだ。 

209頁

崩れた本能をもつ人間だからこそ、「性衝動」という幻想に振り回され、父という「生物学的に根拠のない」フィクションを中心に置くことで成り立つ「家族」という幻想にとらわれている、といえます。これらから離れることがない限り、インセスト願望は「悪」として、私たちのそばに寄り添っている、ものなのでしょうか。

原田武『インセストタブー 人類最後のタブー』人文書院 2001

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