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「教育」と「有用性」

俺達は呼吸するように「教育」という言葉を吐く。
でも、「教育」について語るとき、それが何を教えることを意味しているのか、はっきりと自覚していることは少ない。

学校や塾で提供される「サービスとしての教育」で意識されるのは教科知識の伝授だ。ある科目を勉強するうえで必要な原理や用語を理解し、定着させ、実際に使えるようにすること。もちろん、教科知識を身につけて試験で良い成績が収められるようにすることもそこには含まれる。

もう少し広い視野で眺めてみれば、「社会適合を促す教育」という像が浮かび上がる。「親の教育がなってない」とか、「新人教育」という文脈では共同体や組織といった社会で「恥ずかしくない」立ち居振る舞いを教えることが「教育」の内容として想定されている。教科知識の伝授にしても、「これを知らなければ社会で困ったり、恥ずかしい思いをしたりする」といった「常識」を身につけさせるという側面がある。
また、社会適合には「経済的に自立し、自活できる」ことも含まれる。飯の種になるような技術や専門知識を学ばせることはもちろん、それらをどのように稼ぎへと繋げるのか、手にした金銭をどのように維持しあるいは運用するのか、そもそも自分の関心や技能を世のために役立てるには何を学べばよいのか……そうしたことを教えるのも「教育」の重要な役割だ。

ここまで述べたような「教育」が完璧になされるなら、社会で生きていくために最低限必要な知識や技能、そして礼節や倫理は一通り身につけ、他者に大きな迷惑をかけることのない自立した「社会人」が生まれることが期待される。

じゃあ、「教育」の役割はここまでなのか?

「教育」をめぐる議論の多くが問題にするのは上記の領域までだ。

「数学嫌いを解消するにはどうすればいいか」
「効率的な英単語の覚え方」
「これからの時代に役立つ技術や資格」
「社会で必要とされる人間とは」

こうしたレベルの話を一括りにするなら、「有用性の領域」と呼ぶことができるだろう。社会にとって「有用な」人間を育てること、そのために「有用な」知識を学ぶこと……「教育」の世界には「有用性」の観念が氾濫している。
たとえば、学校教育で古文や漢文を教える意義があるのかという議論は度々繰り返されるのだけど、これも「有用性」の一言で片付けられる。大学受験で必要だから、学ぶことは「有用」なのだ。
じゃあ、大学側はどうして俺達の日常からは縁遠い古文・漢文の問題をわざわざ出題するのか。あるいは、大学受験で古文・漢文を必要としない高校生だって必修科目として古典を学ばなければならない。それはなぜなのか。
こうした問いに対しても、やっぱり持ち出されるのは「有用性」だ。「日本人が古来から備える物の見方を知ることは現代の問題を考えるうえでも役に立つ」とか、「国際社会では自国の伝統文化について無知であることが軽蔑の対象になる」といった抽象的な次元の話から、「反語表現を身につける良い機会になる」とか「原典を知ることで二次創作的な文芸作品を読む楽しみが深まる」といった実践的な話まで、とかく俺達は「有用性」の有無にこだわって「教育」なるものを語ろうとする。

そこで単純な疑問として浮かび上がるのが、「教育」の意義は「有用性の領域」にしかないのか、ということだ。たとえば、「古文・漢文は生きていくうえで役には立たないかもしれないが、学んでください」と言うだけじゃ駄目なのか。
もちろん、教わる側にしてみれば「そんな、理不尽な!」と納得できない物言いだろう。でも、よくよく考えてみれば俺達の人生はたくさんの「役に立たないこと」「してもしなくてもいいこと」で満たされている。「数学なんて勉強したって意味がない」とぼやいている中学生だって、流れてくるTikTok動画やXでの呟きを漫然とスクロールしながら時を費やしたりしているわけだ。大人だって、翌日の仕事のパフォーマンスが低下するのがわかっていても深酒してみたり、長期的な健康に害を与えると知りながらタバコを吸ってみたり。

ならば、そうした「無用性」は「教育」で扱われるべき領域に含まれないのか。

この問いに対する多くの人の直感的かつ常識的な反応は、「無用性は人生に必要かもしれないが、教育で扱うのにはふさわしくない」というものだろう。
その大きな理由は2つ。「教育」を受ける側からすれば、TikTok動画の視聴は自分の意思で決められるのに対し、「教育」の場面では「無用なこと」の学習に強制力が伴われる。自ら進んでやるのは構わないが、人から役にも立たない勉強をやらされるのは真っ平だというもの。
他方、「教育」を行う側にとってはリソースの有限性という制約が立ちはだかる。「有用なこと」をきちんと教え切るのでさえ時間や労力の面で手一杯なのに、わざわざ「無用なこと」を教えるのに貴重な人的資本を浪費するのは割に合わない。まして、社会の公器たる学校や企業がそんなことにうつつを抜かしているのでは世の中への申し訳が立たないというわけだ。

ただ、考えてみて欲しい。「無用性の領域」が「教育」において扱われないのだとしたら、俺達は一体どこで「無用性」を獲得するのだろう。
俺達は広い意味での「学習」を通じて「有用なこと」だけでなく「無用なこと」を身につけていく。友達が面白いと言っていたからTikTokの視聴を始めてみた、周りの大人がおいしそうに飲んでいたからビールを飲んでみた、好きなミュージシャンが吸っていて格好良いと思ったからタバコに手を染めてみた……こうしたことも「学習」にほかならない。
この種の「学習」は「教材」たる人間が意図するしないにかかわらず、「夾雑物」として俺達の経験に混ざり込む。いつも寝癖を直さないまま出勤して教壇に立つ数学教師は、間違いなく数学の知識以外の「何かどうでもいいこと」を生徒に教えている。あるいは、暇なときにスマホをいじってばかりいる父親も、友人と長電話する母親も、上司に媚びへつらう会社の先輩も。
「教育」を広い意味で捉えたとき、そこにはありとあらゆる「無用性」がついて回る。少し大仰な言い方をするならば、俺達は「教育」というものを通じて「人間」を学んでいるのだとも言える。教授される知識に留まらず、「こういう人もいるのだなあ」という影響を大なり小なり与えられ、経験として蓄積していく。そうした経験の集積として俺達はまた、一個の人格を形成していく。
それが望ましい影響なのか、有益な経験なのかを明確に評価することは難しいし、いっそどうでもいい。逆らいようもなく、避けがたくそういうものなのだ。如何に有用な知識を備えようと、社会的に好ましい立ち居振る舞いを身につけようと、俺達の大部分は「無用性」によって構築されている。
今、「教育」におけるAIの活用が模索されているが、俺が危惧するのは「有用なことを教授する主体」としてのAIの限界じゃない。AIが「無用なこと」を教授できるのか、できるとすればそれはどういった「無用性」なのかということだ。
俺達は人間が行う「教育」の場面を通じて「人間」というものを学ぶ機会を有していた。その影響が大部分取り払われたとき、人間は「人間」をどのように学ぶことになるのか。

「教育」における「無用性」を強調することは、当然ながら「有用性」の教授を軽視するものではないし、人間の自然な野性を無条件に賛美するものでもない。むしろ、「人の役に立ちたい」とか「より良い人間でありたい」という思いもまた社会的生物としての人間が備える欲求にほかならない。そうした「有用性」を追求しながらも拭い去ることができない怠惰さ、自己欺瞞、葛藤、意地の悪さといった「無用性」を併せ持つ「人間」のあり方を教えるのが、教えざるを得ないのが「教育」というものではないかということだ。
そう考えれば、純文学や古典といった作品に触れて描かれた人間のあり方や考え方に触れることにも、「役には立たない」かもしれないが何らかの意味があるようには思えてくるはず。そこに教育現場のリソースを割くべきかどうかには議論があっていいと思うが、それらを教えることが立派な「教育」たり得ることは確かだ。

第一、「有用性」という言葉で俺達自身を縛ってしまえば、究極的には生きることそのものが難しくなってしまうのだ。「お前が生きていてもいなくても社会は、地球は回り続けるというのに、お前の存在の有用性はどこにあるのか」と問うてみるならば。
その意味でも、「教育」が扱う「無用性の領域」はもう少し意識されてもいいんじゃないかなと思う。

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