Fumiaki MIYOSHI (Sankichi)

教育者としては中学受験算数から外国人留学生の日本語教育まで、バンドではベースからタンバ…

Fumiaki MIYOSHI (Sankichi)

教育者としては中学受験算数から外国人留学生の日本語教育まで、バンドではベースからタンバリンまで、「器用貧乏」を極めんとする心意気で生きています。 manulというバンドでベースを担当→現在はキーボード、アコギ、タンバリンなど賑やかし担当へ。

マガジン

  • コンドルはあちらこちらへ飛んでいく

    フォルクローレの名曲にしてサイモン&ガーファンクルによるカバーでも知られる「コンドルは飛んでいく」。ジャンルや楽器、言語の垣根を越えて幅広く愛されカバーされる同曲の様々なアレンジを紹介し、その奥深さについて語る記事を特集。 フォルクローレ好きも初心者も、サイモン&ガーファンクル好きもそうでない人も、ぜひこの「コンドル沼」の深みを一度ご覧あれ。

  • 読解考

    「文章を読む」というテーマについて、気まぐれに連載。「読解力の低下」が叫ばれている今だからこそ、考えておきたいこと。入試で点数を上げたいと考えている受験生には役に立たないので、期待しないように。

  • 山手線を歩いて一周してみた

    2023年3月28日、唐突に思い立ち「山手線一周ウォーキング」を単独決行。途中で見かけた印象深い風景の写真とともに、その記録を公開。山手線歩き、特に同じく山手線一周を考えている人の参考になればと。

最近の記事

意識あるものを傷つける

もし、蚊やゴキブリといった存在が人間、あるいはチンパンジーや犬と同じように「意識」を持っているとしたら? 「意識」の定義は実のところ難しい。世界中の哲学者や脳科学者が長年議論を続け、未だ統一的な答えが出せていない問題だ。 ただ、「現象的意識(phenomenal consciousness)」という観点に限定すれば、ヒトを含めた哺乳類はおろか、全ての脊椎動物、さらにはタコや昆虫など多くの無脊椎動物が「意識」を持ち合わせているらしいことが多くの研究によって示唆されている。

    • 小学生のうちに伸ばしておきたい力③「暗算」

      注意力散漫な小学生が、途中式や筆算を書かずにいい加減な計算をして答えを間違える。 それを見た保護者や教師が激怒する。「計算を丁寧にやりなさい」と。 ありがちな光景だ。 確かに、丁寧に筆算をすれば正しく答えが出せるような計算を暗算して間違えるのは愚かしい。だから、途中式や筆算を書けという指導自体が必ずしも不適切なわけじゃない。 ただ、いつも適切なわけでもない。 計算が正確な人というのは総じて計算が速く、暗算力が高い。 もちろん計算が速いばかりで不正確な人も少なくないので、

      • 「常識」は「非常識」から生まれるもの

        たい焼きをどこから食べ始めるか―これは永遠に意見の一致を見ることがないであろう、日本国民を分断する問いである。 ……と思いきや、その答えには意外と偏りが見られるのかもしれない。 上記サイトの調査によると、約7割の人が「頭から」と回答している。 この数値は、ともすれば「一般常識」とされる事柄を問うクイズの正解率よりも高い。 けれども、たい焼きを尻尾から食べたとしても、その行為が「非常識」との誹りを受けることはないだろう。一方、和定食の配膳の際、飯碗を相手の右手前、汁椀を左

        • 「そのままでいいんだよ」と囁くビジネス

          「不安産業」という言葉を耳にしたことがあるだろうか。人々の不安を利益の源泉にするビジネスを指す俗語だ。特に保険、金融、健康、美容、教育などに関わる事業についてしばしば使われる。 俺達は様々な不安を抱えて生きている。 「老後の生活は大丈夫だろうか?」 「学校の勉強がわからなくなって、受験に失敗しないか?」 「就職活動をしても、どこの会社にも採用されなかったら?」 「知らないうちに認知症のリスクが進行しているのでは?」 「不安産業」に関わる企業やインフルエンサーはこうした不

        意識あるものを傷つける

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        • コンドルはあちらこちらへ飛んでいく
          6本
        • 読解考
          5本
        • 山手線を歩いて一周してみた
          8本

        記事

          信用できないからこそ信頼できる

          昔勤めていた会社で上司が冗談交じりに言っていた人物評が印象に残っている。 「◯◯さんは信用できないけど信頼はできるよね」 謎掛けのような言葉。ただ、言わんとしていることは何となくわかる。 「信用できない」とは、約束を守らなかったり思いつきで適当なことを言ったりするといった、一つ一つの言動に対する評価だと言える。一方、「信頼できる」というのは人のあり方への評価だ。「この人なら困ったとき助けてくれる」とか、「たとえ間違うことがあったとしてもこの人にならついて行ける」と思えるか

          信用できないからこそ信頼できる

          小学生のうちに伸ばしておきたい力②「見積もり」

          小学校の算数には、非常に重要なのだけど意外と軽視されがちな単元がある。 それは「およその数」、すなわち概数だ。 たとえば、$${872×19}$$という計算を考えてみよう。俺達が学校以外でこの正確な答えを自力で求めなければならないような事態は考えられるだろうか。 もちろん、1つ872円のケーキか何かを19人分買わなければならないといった場面は存在するかもしれない。けれども、ほとんどの人はその金額を正確に求める必要を感じないだろう。現金で購入する場合でも、たぶん多めに金を用意

          小学生のうちに伸ばしておきたい力②「見積もり」

          根無し草の言葉

          先週末、実家のある高知に帰省した。 毎年一回は帰るようにしているのだが、その度に感じる心の疼きのようなものがあって、それは年々増しているような気がする。 それは、言葉の問題だ。 町を歩けば、店に入れば、そこかしこで交わされる郷里の言葉と訛。 けれども、東京で暮らし始めてもう二十年以上経つ俺の言葉からは次第に土佐弁の色が剥落し、今では見知らぬ地元の人達と話してみても郷土人だとは気付いてももらえない。 それが何だか悲しくて、郷里に帰ったときぐらいは努めて土佐弁を使って話そうと

          小学生のうちに伸ばしておきたい力①「推論」

          今どきの教育者というのはかなり丁寧で親切だ。 学校の授業ではわかりやすく要点をまとめたプリントが配られているし、学習参考書なども説明がきめ細かく、きちんと読みさえすれば何をどのように考えればいいか、大体わかるようになっている。 学習者を迷わせないこと、それが教育の目指す所と言わんばかりだ。 生徒の側からしても、それは非常にありがたいことだろう。自分でノートをまとめたり要点を考えたりするのは骨が折れるし、自分の解釈が合っているかどうか不安に思うことも無くて済む。何より、今や学

          小学生のうちに伸ばしておきたい力①「推論」

          「プラス思考」の本当の意義

          プラスとマイナス、それはある尺度上での位置を表す言葉だ。そして、共通の尺度で測られるデータ間では値の足し引きが可能である。たとえば、気温という尺度に基づけば15℃と-3℃との差を求めることはできる。けれども、尺度を異にする値同士の加減には意味がない。15gと-3℃の差を計算することはできないのが明らかであるように。 「プラス思考」と「マイナス思考」という表現がある。いずれも「思考」という言葉を伴うがゆえに、両者は共通の尺度で測られるべきものであるという印象を俺達に与えがちだ

          「プラス思考」の本当の意義

          「(得るもの)>(失うもの) ⇔ 幸せ」ではない

          俺達は他者の人生を羨む。 もっと正確に言えば、他者の人生の一側面だけを切り取って羨む。 スティーブ・ジョブズや大谷翔平になりたいという人は彼らが成し遂げて手に入れたものばかりに憧れ、その過程で手放したものにまで目を向けない。 仮に輝かしい成功が約束されているとして、多くの友人との付き合いや不健康な食べ物を味わう楽しみが失われた人生をあなたは歩みたいと思うだろうか。 仮に大企業の社長や有名タレントになり高級車や豪邸を所有できるような身分になったとして、その一挙手一投足が世間

          「(得るもの)>(失うもの) ⇔ 幸せ」ではない

          学習における合理性と倫理

          先日、Yahoo!ニュースで興味深い記事を目にした。 ある中学校の理科の授業で「唾液アミラーゼの働き」を調べる課題が出された際、生徒の半数が同じ答えを書いて不正解になったという記事だ。 その誤答はと言えば、「唾液アミラーゼは、食べ物に含まれるでんぷんを分解し、胃で消化されやすくなる」というもの。胃はでんぷんの消化に関わっておらず、標準的な教科書にこのような記述が載せられているはずがない。それにもかかわらず同じ誤答が続出するということは……と察した教諭がさっそく生成AIに課題

          学習における合理性と倫理

          人間は暇な時間で出来ている

          世に広く知られた美食家ブリア=サヴァランの名言。 食事を人生の重要な目的として考える人は多くない。俺達のほとんどは空腹を満たしたり、生きるのに必要なエネルギーを得たりするために物を食べている。 もちろん、食べるのが楽しみでしかたがないという人もいるだろう。けれどもそれはあくまでも趣味・嗜好の話に過ぎない。この一食が自分の人格や人生にどう影響するのかなんて考えながら日々口にする物を選んでいる人など、いたとしてもごく僅かであるはずだ。少なくとも、結果を意識せざるを得ない仕事や勉強

          人間は暇な時間で出来ている

          先生、髪を切られましたか

          日本語学校でのある日の授業。 前日に髪を切ったのだが、教室に入るとそれに気付いた学生がすかさず訊いてくる。 「先生、髪を切られましたか」 さて、何の変哲もない質問のように思われるかもしれないが、日本語教師という生き物は学生からのこうした言葉を聞くと、すかさず何通りもの憶測を巡らせずにはいられないものだ。具体的には以下の状況を考えてみる。 1. 尊敬の助動詞「れる」が正しく使えている これならば適切な日本語なので問題はない。ただ一つ難があるとすれば、多くの学生は演習やテ

          先生、髪を切られましたか

          多文化共生社会で茶番劇を再考する

          日本語学校には授業以上に重要な務めがある。 それは、学生をきちんと学校へ来させることだ。 馬鹿みたいな話だと思うだろうか。 けれども、日本語学校における出席率というのは日本人向け教育機関におけるそれよりもかなり重要度が高い。何せ、出席率が一定の水準を下回るとビザの更新が認められず母国へと帰らされてしまうのだ。 それならそれで自己責任だと思われるかもしれないが、問題はそこで終わらない。懸念されるのは在留資格を失った外国人が失踪し、不法滞在者として国内に留まることだ。基本的に

          多文化共生社会で茶番劇を再考する

          理由なき反抗

          思春期の頃、何度も読んだ本が2冊ある。 村上龍の『69 sixty nine』とヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ。 『ぼくらの七日間戦争』なんかも好きだったけど、これはどちらかと言えば映画で何度も見ていた。 ある年代以上の人にはピンと来るのだろうが、若い人にはわからないかもしれない。 それは作品自体が古いというのもあるのだけど、そもそも作品のテーマそのものに共感するのが難しいんじゃないだろうか。 学校や大人への反抗。 俺が子供時代を過ごした1980年代、90年代の空気は

          「赤いりんご」とPost-truth

          目の前に赤いりんごが置かれているとする。 そのとき、俺達は「赤いりんご」が実在すると言えるのだろうか。 もっと言えば、「赤いりんごが『ある』」と言ったとき、それはどういうことを意味しているのだろうか。 テーブルの上に「赤いりんご」が置かれているという現象は、誰にとっても疑いようのない客観的事実であると思われることだろう。 けれども、視細胞の「不全」から赤色と緑色との識別が困難な色覚異常を持つ人は一定数存在する。そうした人達は、それにもかかわらずそこに「赤いりんご」があること

          「赤いりんご」とPost-truth