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「エッセイ」無駄な物にこそ愛着があり無駄な時間が人を育てる

ミニマリストの人が見たら、反感を買いそうな題名だけど、まあ、いいか。


テフロン加工のフライパンが、イカれた。
目玉焼きもスクランブルエッグも、くっつく。
焼きそばが出来上がったら1/3の量になっていた(それは腕が悪いからじゃない?)
もはやテフロンと言う名前の付いた軽いフライパンでしかない。
今度こそ「ティファール」で全部揃えようと引っ張って引っ張って、よくぞここまで付いて来てくれた(涙)
アーメン!

おっと、「無駄」な話しだったよね(苦笑)

皆さんは「きちゃないぬいぐるみ」や「ダニの巣になっていそうな使い古した毛布」や「欠けたコーヒーカップ」などを捨てられずに持っている事はないだろうか…

上記の題名は私の優秀な女好きな父が言った言葉だ。左脳だけで飯を喰ってきた、元へ私を育ててくれたような父だがたまに良い事を言う。

それは私が第一志望の大学受験に失敗し仕方なく滑り止めで入った大学でやる気を失くして
「辞めたい!」
と騒いでいる時だった。
「遊びに行ってればいいから」
「はぁ~?」
「そういう世界があるって遊んでればいいんだよ」
「どういうこと?」
「遊びの時間は無駄なようでいて無駄じゃない」
「大きな広い世界を見ろって事?」
「ちょっと違うけど、それもいいかもな。とにかく遊びなさい」
私も変人だが父はもっと立派な変人だった。
人間にとって遊びだったり休憩だったり立ち止まっていたり…何の生産性もない、一見「無駄に見える時間」が、その人を育ててくれると父は言いたかったらしい。
素直な私は頑張って遊びまくった(笑)

例えば、歳をとって若い時のこの無駄な時間が無く「働き詰め」だったとしよう。
そんな人に濃厚な「思い出」や生き甲斐となる「趣味」があるだろうか?
歳を重ねてから持つ「趣味」も、もちろんあっていいと思う。でも若い頃と同じような体力や知力は、もう携わっていない。自分にあった物を見つけ出すのに時間が掛かってしまうのじゃないかな?
若い頃の「無駄な時間」とセカンドライフに入ってからの「無駄な時間」では重みが違うと思う。とても大切な時間だ。
そして「無駄な時間」は人の心の奥行きを広げると思う。好みにもよるが「薄っペラい」人に私は魅力を感じない。
失敗したり遊んだり転んだり、付いた傷痕がかさぶたになって始めて他人に対する思いやりや寛容な心か生まれるのじゃないかと思う。


あっ、フライパンの話だった(笑)

ダーちゃん(主人)が倒れた時、知人から沢山のお見舞いを頂いた。でも「快気祝い」を出す事は遂に出来なかった(泣)
私はお見舞いを下さった方へのお付き合い、お見舞いやお香典でお礼をし続けた。
するとお返しは要らないのに家に沢山の「カタログギフトブック」が届けられた。バカな私はそのカタログから2人分のお茶碗だったり、2人分のティーセット、2人分のお皿を揃えてダーちゃんが帰って来るのを待ち続けた。
片方だけしか使わない茶碗、一枚しか使わない皿、一客しか飲まないカップ……
そんな「無駄」な物に囲まれて、私は生活している。
捨てればいいじゃない?
って思うかもしれない。でも捨てる気になれない。
私の夢見た「いつか」の記憶を封印したくない。写真に残せばいいとミニマリストの方は言うかもしれない。
でも貴方は捨てられますか?一緒に育ってきた「きちゃないぬいぐるみ」達を…
その手触りや感触、ぬくもりが、心の宝物だったりしませんか?
スマホに写した画像を触って、大切な時を思い起こせる人は棄てても構わないと思うけど…


フライパン!フライパンの話は何処へいった?

そうそう!だからお鍋も4人用、フライパンも4人用、やかんも大きい(全部カタログギフトの新品だ)
でも今私が使っているのは買い足した一人用の小鍋と2人分くらいのそのフライパン(笑)

ティファールで1人分セットを揃える?!
いや、その前に有るのか?1人分ティファール!?
また台所が「無駄」な物で溢れかえるような気がする、秋の午後…


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