見出し画像

植物人間の妻 3【連載 記憶の記録】

2010年12月20日 朝
私はひたすら救急車の到着を待っていた。
電話の発信時刻から22分が経過した頃、やっと救急隊員が家に到着した。
ガタガタ、ズカズカ…
ガタガタ、ズカズカ…

「失礼します、一報されたお宅は、こちらで間違いないですか?」
「はい、お願いします、こっちです」

二人の救急隊員を夫が横たわっている居間に案内した。
直ぐに搬送してくれると思っていた私の思惑は外れた。隊員の一人、年長の方が夫に質問を始めた。

「お名前は?」
「〇〇〇〇です」
「生年月日は?」
「〇年〇月〇日です」
「住所は?」
「〇〇県〇〇市〇〇町2の31」
「痛いところは何処ですか?それは何時から?」
「頭が痛いですね、朝からです」

       ※個人情報の為に伏せてあります

夫は猛烈な痛みの中をその質問にしっかりと答えていく。隊員は一つ一つを用紙に記入していく。
その間にも酷い吐き気が襲い、何度も洗面器に顔を突っ込む。

「もう一度繰り返します」

えっ、何故?
そんな必要があるの?まだ病院へ運んでくれないの?何故?何故?

「お名前は?」
「〇〇……〇〇でしゅ
「生年月日は?」
「〇にぇんがちゅ…」

夫の滑舌が回らなくなると
「よし!搬送しよう!」
隊員がやっと重い腰を上げた。あの人は何を確認したかったのだろう。同じ質問を二度も繰り返して。未だに私には分からない。規則なのだろうか?脳疾患を患っていると思われる救急患者に滑舌が乱れるまで質問を繰り返す必要があるのか?この間、約十分以上!

早くして、お願いだから、早く!
私だけが焦っている。

質問を二回繰り返すのは、まだ良かった。搬送と言ったのにストレッチャーらしき物は運ばれていなかった。隊員が二人、黄色の布を広げ夫を包んで持ち上げようとしている。

「えっ?担架は?」
「六階なので、この方が早いんです。」
「でも二人で主人を運ぶのは無理だと思いますが…」
「大丈夫ですよ、奥さん。その為に我々は日頃訓練しているんです」
「…」

自信満々にそう言われると何も言い返せなかった。でも隣のおじさんもその隣のおじさんの時もストレッチャーで運ばれて行ったけど…


「うっ、重いな…う、うう」
二人の隊員は夫をなかなか持ち上げられない。両足を片方づつ布の穴に入れられ、腕と足を持たれた夫は腹が下がった状態になり、更に苦しそうに私の目には映った。
長い間、本物の肉体労働で鍛え上げた夫の筋肉は、見た目よりも締まっていて重い。訓練していると自負していた隊員二人は、ヨロヨロと立ち上がるのがやっとで居間から夫を運び出す事が出来なかった。

「無理だ!一度、下ろそう」
「えっ!」

だから言ったのに…

二人での搬送が無理だと分かってから、無線機のような物で一階に待機しているもう一人の救急隊員を呼び寄せた。
その時丁度、マンション住人達の出勤時刻に重なってしまった。エレベーターは各階で昇り降りが繰り返され、ちっとも上がって来なかった。
全ての運が悪い方へ向かっているとしか思えなかった。
私は憤りのないイライラを隠すのに必死だった。
ガタガタ…ズカズカ…
「失礼します!すみません、エレベーターが混んでて…」
三人目の隊員が到着した。三人掛かりでやっとスムーズに夫は宙に浮いた。
これで病院へ行ける!

そう思った時、愛犬ゴンの存在を思い出した。他人が入って来たのに一言も吠えない。何処に居る?!
振り返ると寝室でお座りをしたままプルプル震え続ける仔が見えた。震えながら事態を飲み込もうと必死に此方の様子を伺っている。
「ゴンちゃん、いい子にしててね」
私はバッグを掴むと直ぐに夫の後を追った。


一緒に玄関を出ようとする私に
「今日子、タオル持って来て!汗が酷いから!」
夫はハッキリした口調でそう言った。その後
「今日子、今日子、今日子〜〜」
三回、まるで助けを求めるように私の名前を呼んだ。あの声が今も私の耳に残る。あの叫びが無かったら、私はあんなに頑張れなかったと思う。
それが私が聞いた夫の言葉らしい言葉の最期になるとは思いもしなかった。
「はい!」
二、三枚のタオルを持ち、エレベーターに乗り込もうとすると
「奥さんは後にして下さい」
と言われた。隊員三人と身体の大きな夫で、確かにエレベーター内はいっぱいだった。
取り残された私に向かって継母が玄関から飛び出して来た。
「これを、これを持って行きなさい」
私の手に一万円札を数枚押し付けた。その背後で父が大きく頷いている。
「ゴンをゴンちゃんを頼むね」
「分ってるから、さぁ行って」
「ありがとう、お母さん、お父さん」

チーン
エレベーターが一階に降りるとエントランスに数十人の人集りが出来ていた。マンションの住人、近所の人達、野次馬……
「〇〇さーん、頑張ってー!!頑張ってよ〜」
夫の名前を呼び、手を合わせて拝んでいるお婆さんまで居る。
管理人のおばさんが私に駆け寄って来た。
「まさかまさか、〇〇さんだなんて……奥さん、頑張って」
おばさんまで涙ぐんでいる。

その様子を見て私は冷静さを取り戻したような気がする。私が、私が、しっかりしなくちゃ。

夫は長い間、このマンションの管理組合長を務めていた。また地区の祭りの青年長も務める有名人だった。
人集りをぬうように大きく開いた救急車のハッチの前に着くと

「あっ!」

其処には既に先客が居た。
夫が倒れた事を聞きつけて救急車に先に乗り込んだ夫の愛人、うちの社の従業員だった。
私よりも一段高い救急車の中から、彼女は私を見つめている。その瞳が
(お願い!奥さん、私も連れて行って!)
と訴えていた。

「降りなさい、其処は貴女の座る場所じゃない」
自分でも驚く程、すんなりと言葉が出た。
「……」
今回だけはダメ。今まで貴方達の遊びに知らないふりをして目を瞑って来たけど、今日はダメ。
其処は私が座る席だ。
「容態は必ず、後で連絡するから、ねっ?」
「……」
お願いだから聞き分けて!
「はい…奥さん、よろしくお願いします」
女は別れを惜しむように夫をじっと見つめながら、しぶしぶと救急車を降りて行った。
事態を見ていた隊員が不審に思ったのか、
「奥さん……ですよね?」
さっき会ったばかりなのに確認した。
「はい!」

私が救急車に乗り込むと、夫が大きく片手を上げた。
まるで見守る皆に手を振るように…
その腕がぶらんとストレッチャーの横に落ちると夫の唇の右端から長いよだれが、ツーと流れた。そしてイビキが始まった。
「意識混濁!」
救急隊員が叫ぶ。
救急車はまだ出ない。搬送先が決まらないらしい。

あの日の朝は寒かった。脳疾患で倒れた人が多かったのだろう。手術の出来る隣市の脳神経外科の手術室は全て塞がっていた。隊員はあちこちの病院に連絡をしてくれているらしい。緊迫している空気がこちらにも伝わって来る。
「はい、はい、そうですか、お願いします!」
手術は出来ないが、脳神経外科医の居る市立病院に搬入される事に決まった。
ブルン
大きな音を立ててエンジンがかかり、ゆっくりと救急車はマンションの駐車場を後にした。




(あとがき)
後になって分かったのだが、どんなに早く救急車に運び込まれたとしても、あの日夫を引き受けてくれる病院は地元には一軒も無かった。だから現在は救急隊員の皆さんに感謝の気持ちが足りなかった事を申し訳なかったと思っている。ただ、私はあの日の本当の気持ちの流れを書きたかっただけので、ご了承頂ければと思う。









この記事が参加している募集

#私の作品紹介

95,294件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?