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「短編小説」聖母マリアは死なない

横浜の観覧車が見えるホテルで水野 実花は、清掃係をしていた。海側の壁一面が窓の部屋から天気の良い日にはずっと遠く水平線の彼方まで海を見渡せる。
実花は、この仕事が好きだった。
しわくちゃになったシーツをランドリーボックスに入れ、ベットメイキングをする。 
備え付けのアメニティグッズの補充をするとロクシタンの甘い香りに包まれた。バスルームを髪の毛一本残さないように綺麗に洗いあげる。
シャワーヘッドから出る噴水のようなお湯で、バス洗剤を流しながら
「便利な世の中になったこと」
実花は呟いた。
あの頃は水道さえなかった…


もう何百年前になるのだろう?350年くらい?
じゃあ、私は375歳になるのか…
長生きをし過ぎて自分の歳さえ忘れてしまった。日本が『江戸』と呼ばれていた時代に実花は生きていた。名前は…初(ハツ)といった。
もう何十回と自分の名前を替えて生きてきたが、最初の名前だけは覚えていた。

「これだけ清潔だったら…あんな事にならなかったのに」


当時、初には三歳になる可愛い盛りの女の子 花が居た。
長屋の共同井戸へ水を汲みに行く時も、ちょこちょこ後を付いて来て「おかあたん、おかあたん」と甘える姿が、初は愛おしくてたまらなかった。
それが江戸を襲った流行病の『コレラ』に花が感染してしまった。
「おかあたん、お腹がいたい、おかあたん」
発熱、強烈な下痢に吐き気…
初は毎日、懸命に看病したが当時はコレラに効く薬はなかった。
旦那が大工の仕事から帰って来ると初は、毎晩裏の小さな稲荷神社にお百度を踏みに行った。

「どうか、花を助けて下さい。花が助かるなら、私の生命なんて、どうにでもして下さい」

毎晩、毎晩祈り続けた。
三日月の夜の事だった。いつものように
「どうか、花を助けて下さい。もう時間がありません。私の生命を差し上げますから、花だけは…」

コーン!

一声、キツネの鳴き声が神社の闇を震わせた。

『その言葉にウソはないかい?』
何処からともなく甲高い声が聞こえてきた。
「神様、もちろんです!」
初はお社に向かって叫んでいた。
『ほぉー、じゃあ、その生命、私が自由に使って良いのじゃな?』
「花が助かるなら、花を助けて頂けるなら、喜んでこの生命、差し上げます」
『分かった…じゃあ、お前は永遠に生きろ!』
「えっ?それでいいのですか?」
『この意味に気付いたら、死なせてやってもよいがの〜』
「ありがとうございます、ありがとうございます」
初は涙が溢れて止まらなかった。これで花の生命が助かる。また平穏無事な生活が戻ってくる。
『それから、花が治ったらお前は家を出て行くが良い』
「えっ?」
『それで良かったとお前も、後になって分かるじゃろう。良いか、必ず出て行くのじゃぞ、約束だ』

コーン!

キツネが再び一声哭くと辺りは静寂に包まれた。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
初は、もう一度神様にお礼を言うと一目散に山を駆け下りた。
「花、花〜、治るよ、花、きっと良くなる」


ガラガラ〜ッ
長屋の引き戸を開けると花は、虫の息で苦しそうに寝ていた。横に座っている旦那の清吉が
「もう、飯も喰えねぇや、チキショー」
悔し涙を浮かべている。
「ねぇ、あんた!治るって、治るって神様がおっしゃったの」
「初、おめぇ、遂に気でも違っちゃったのかい?」
「裏のおキツネ様のお伝えだもの。きっと治る」
「……」
清吉は呆れたのか、そのまま布団を被ってしまった。



「うふふ、そうよね~、誰でもそう思うわよね」
実花は清掃が済んだ部屋のドアを規則通りに開けたまま、隣の部屋へ移動した。



それから二日目の事だった。
「おかあたん、おなかがすいた」
花の隣でうとうとしていた初を小さな手が揺り起こした。
「あっ」
初の顔を覗き込むくるりとした花の目があった。
「花ちゃん、花…」
小さな我が娘を抱きかかえて、初は天へ向かってお礼を言っていた。
「神様、おキツネ様、約束を守って下さったんですね。ありがとうございます」
「おかあたん、いたいよ〜」
ギュッと抱きしめ過ぎたのか、花は以前とは違う「いたい」を言った。
柔らかな頬に赤みがさしていた。

それからニ週間の後、初は清吉と花が寝静まるのを待ってから、そーっと家を出た。
二人の幸せだけを願って、おキツネ様との約束を果たす為に。




移動した隣の部屋にルームキーを差す込むとお客様が付けっぱなしで、チェックアウトしたのだろう。テレビが付いた。ワイドショーの特集のテーマは「アンチエイジング」だった。
老けないための化粧品、高額な美顔器、若さを保つためのサプリメント……等々
ベッドメーキングをしながら実花は
「ふっ」
鼻先で笑った。
人は老いて死ぬから幸せなのに…

そう言えば、同僚の清子さんが昨日ロッカールームで私に声を掛けたっけ。
「水野さんて、五年経っても全く変わらないのね。どんな化粧品つかってるの?」
そろそろ、この職場も辞めなくちゃ……。

その時、作業着のポケットに入れたスマホがラインの着信を告げた。


つづく












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