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「素人のボランティアは邪魔」じゃなかった話

こんにちは。
実家が全焼したサノと申します。 

僕は東日本大震災が起きた3週間後に、
福島県いわき市にボランティアに
行ったことがあります。

震災があった直後テレビでは、
ACのCMがたくさん流れていて、
バラエティも自粛されていて、
SNSでは多くの人が、
様々な議論をしていました。

その中で僕が少し気になったのは、
「素人のボランティアは邪魔」
という声でした。

当時は世間の大半が
その意見に同意していましたし、
僕も「そうなんだ。」と思っていました。

確かに、考え無しに被災地に行って、
迷惑をかけてしまっては本末転倒です。

ただ、ある日友人が、
「何か現地でサポートをしたい」
という内容をSNSで投稿しただけで、
袋叩きに遭っていたのを見たときに、
僕は違和感を持つようになりました。

そしてその違和感の正体は、
被災している当事者からの声ではなく、
安全圏にいる僕たちが
「素人のボランティアは邪魔」だと
言っていることだと気付きました。

今思うと、とても危なっかしく、
正しい選択だったとは言い切れませんが、
大学生だった当時の僕は、
現地に行って、現地の人の本当の声を
ちゃんと知りたい、届けたいと思い、
ボランティアに行くことを決意しました。

ボランティアに行くことを決意してから
はじめにおこなったのは、事前準備です。

NHKや赤十字の
災害支援担当の方に相談しながら、
必要な物資や、
ボランティアに求められていることを
準備していきました。

当初はすぐにでも支援したい
気持ちがありましたが、
色々な方に相談した結果、
「少なくとも4月初旬まで待つべき」
という声が多く、それに従い
4月1日に向かうことに決めました。

そして必要な物資を購入するための、
募金活動もおこないました。
様々な方が協力してくださり、
募金は22万円集まりました。

この活動は危険が伴うため、
元々1人で現地に行く予定でしたが、
友人も賛同してくれて、
2人で行くことになりました。 

そして4月1日の午前10時に 、
トラックをレンタルして
難波から出発しました。 

友人は免許が無いので、運転手は僕です。
しかし僕も当時、
人生で4回しか車を運転したことがなく、 
高速道路も初体験でした。

練習無しで運転するのは不安なので、
一応ゲームセンターのマリオカートで
何度か運転の練習をしましたが、
ほとんど役に立ちませんでした。 

はじめは下道を走り、 
物資を購入していきました。 

ちなみに初駐車はこのような感じでした。

友人は愕然としていました。 

物資は様々なお店で購入できましたが、
ほとんどのお店が一度に大量に
買えないように対策を
おこなっていたため、少しずつしか 
調達することができませんでした。 

しかし大阪から名古屋まで下道を走り、
多くの店舗をまわったことで、
大量の物資を集めることができました。

・飴20袋 
・ポテトチップス30袋 
・缶詰め100缶以上 
・野菜ジュース30本 
・水2L100本以上 
・歯みがき粉20本 
・歯ブラシ100本 
・綿棒50セット 
・トイレットペーパー100セット 
・ボディーシート100セット 
・電池200個 
・マスク300枚 
・生理用品500枚 
・おむつ700枚 
・カットバン1000枚 

これらを購入し、
名古屋から高速道路に乗りました。 

トラックは物資の重さで、 

「ハァ゛ーン゛!」 

と西城秀樹のような
唸り声を上げながら走っていました。 

安全運転を心がけ、30時間近くかけて
ようやく福島県いわき市に到着しました。

実は僕たちは目的地を
福島県いわき市にするのか、
宮城県仙台市にするのか、
ギリギリまで悩んでいました。 

しかし被災地へと向かう途中に、
多くのボランティア団体や 
個人支援をおこなう方と遭遇しましたが、
被爆の影響が未知だったこともあり、
福島県へ向かう方が
ほとんどいなかったため、
僕たちはいわき市に 
行くことに決めました。 

正直に言うと、
2人とも被曝するのが
すごく怖かったです。

しかし知識もお金も無い
僕たちができることは、
そういった支援の手薄な地域に行って
支援することだと話し合い決めました。

こう言った決断が
正しいとは決して思っていないし、
僕から皆さんに推奨はしない、
ということだけは
ここで伝えさせて下さい。

決断したものの、
恐怖心を拭えない僕と友人は、 

「いわき市はひらがなで読みやすいね。」

という話を何度もしていました。
すると不思議と恐怖心は消えました。 

いわき市に到着するとまず、 
いわき市の災害対策本部へ向かいました。 

そこで災害対策本部の担当をしている方に
僕たちの思いや出来る事を伝えました。

すると担当の方は僕たちのことを
とても気に入ってくれました。
僕たちの物資を5ヵ所の避難所に
配給するのを手伝ってくれたり、
「ありのままの現状を伝えて欲しい」
と特に被害の大きな被災地を、
案内してくれました。

テレビで似たような景色を見たことは
ありましたが、やはり実際に見るのとは違い
息が詰まるような気持ちになりました。

一方、災害対策本部の担当の方は、
この景色に慣れているため、
とてもフランクな語り口で
津波の様子を説明してくれました。

避難所に物資を配給した際、
避難所にいる方々は
とても喜んでくれました。

避難所には老人が多く、
中には、泣いて感謝してくれる方もいました。

5つの避難所に伺いましたが、
どの避難所に行っても
喜ばれることばかりでした。

僕たちは批判される覚悟も当然あったので、
正直なところホッとしました。

この日は物資を運び終えると、
災害支援センターへ行き、
ボランティアの登録をし、 
トラックの中で眠りました。 

ただし、余震とは思えない
大きな揺れが何度もあり、
落ち着いて眠ることができませんでした。

翌朝、災害支援センターから連絡があり、 
家屋の瓦礫撤去等のお手伝いを
させていただくことになりました。 

保険等の手続きをおこなうために
センターに行くと、 

「原発から30km以内には 
絶対に入ってはいけません。 
被曝する恐れがあります。」 

という貼紙があり、
改めて原発の近くにいる
という現実を実感しました。 

手続きを済ませ、家屋に向かうと、 
そこには僕たち以外に5人の 
ボランティアスタッフの方がいました。 

ボランティアスタッフの方は
僕たちに挨拶してくれました。

「よく来てくれましたね! 
ここはボランティアが 
全然来ないんですよ! 
日本政府は30km以内禁止 
と言っていますが、
根拠なんて無いですからね!」

確かに周辺には
比較的年配の方しかおらず、 
ボランティアの方以外に
若い人はいませんでした。 

地元の方の話によると 
この地域では若い人は
ほとんど親戚の家などに 
避難しているそうです。 

正直ビビリの僕にとっては
刺激が強すぎたので、
強い心を保つために、
ヘルメットに文字を書きました。

なんだかよくわかりませんが友人は

と書いていました。

僕が言うのもなんですが、
かなり変わっているな、と思いました。

英語がわからない人のために 
ひらがなで書いたそうですが、
英語がわからない人はきっと 
「めいあいへるぷゆー 」
の意味もわかりません。 

瓦礫撤去や家電の整理は
ボランティアの方々と協力し、
無事に終えることができました。

住民の方々もとても喜んでくれました。 

作業を終えた後は僕たちは
いわき市役所に行き、
預かった募金の残りを
全て寄付しました。

そして福島県を出発し、
行きは30時間かかりましたが、
帰りは18時間で大阪に
帰ってくることができました。 

僕たちのおこなった活動は
ただの自己満足かも知れませんが、
しかしそれでも僕は行って
良かったなと思っています。 

なぜなら現地に行ったことで、
憶測ではなく、生身の人の声を
ちゃんと聞くことができたからです。 

当時は世間で自粛や不謹慎という言葉が
蔓延していて、
「素人のボランティアは邪魔」 
と多くの方から言われていました。

しかし現地の方々からは、
「誰でもいいから手を貸して欲しい」 
という声をたくさん聞きました。

もちろん、僕が拾えていない声も
沢山あったとは思います。
ただ、少なくとも僕が見た限り、
大多数の意見はそうでした。 

一方、「素人のボランティアは迷惑」
という言葉には正しい一面もあります。
何も準備せずに、現地の資源を消費し、
迷惑をかけてしまうケースもあるようです。 

だから最低限のルールは
きちんと勉強した上で、
臨む必要があります。

ただし、素人だとしても、
「誰かの役に立ちたい」
という思いそのものを否定する人は
ほとんどいないと思うので、
その気持ちがある人が少しでも前向きに
なってくれたらいいな、と思います。

ちなみにファッション素人の僕は、
その後なぜか新聞に掲載され、
全国の方々にイカれた
ファッションセンスを披露
してしまうことになりました。


いただいたお金は、切ないことに使います。