「お」から始まる言葉が言えなくとも

誰も興味はお持ちでないでしょうが、7月18日からこっち、複雑な気持ちを整理できずなにも書けなかった「認定」の話を、そろそろ記しておきましょうや。


落語の世界に出会う前から「人間国宝」という大きなラベルによって、そのひと・その技芸が、単なるラベルとして消費 / 集約される場面にたびたび遭遇し、違和感を感じてきた身としては、落語の世界にいざなってくれた大好きな師匠が、──自分にとっては「自由」の象徴のように感じていた師匠が、その当事者になる・ラベルを負うことについて、とても複雑な気持ちだったのです。

実のところ、師匠を好きになった当初からずっと恐れていたことでもあったのだけれど。いざそのときが来てみると、伝統芸能に新しく出会いなおしてからずっと、制度の在りかたに疑問を抱いていたことも影響して、思考と感情がグチャグチャに混じり合ってしまって、それらを分離させるのすら、ずいぶんと時間がかかってしまった。

そもそも、お上から恣意的に保護する対象と対象外に仕分けられることに疑問を抱いていたのもあるのですが、なにより、大衆芸能が"権威的なもの“に合流(……という表現はいささか強すぎるけれど、あえて使います)するのは、長い目で見て本当に幸福なことなのだろうか……などと、おそらく一般消費者が考えても仕方のないような諸々について、自分の中で問いを立て続けてきたわけです。

自分たちの文化に誇りをもつこと、そのためのわかりやすい指標があること。国がその価値を真の意味で認めそだてようとすることは勿論必要だとは思うし、「外」に目を向けたときもっとも重要となる姿勢でありましょうが、なんでもかんでも「文化財」化するのを有り難がって享受するような現代の風潮は、かえってそこに内包する雑多であることの豊かさを、痩せさせてしまうような気さえしています。

この問いに対して、生きているうちに自分にとっての解を導けるかはわからないし、答え合わせができるとしても、それは死んで数百年のちのこと、その当事者にわたしは決してなれはしないのだけれど。

ただ、今ひとつ思っていることとしては、認定を受けようが受けまいが、その後の姿勢や振る舞いの方がより重要なのだろうな、ということです(部外者だからなんとでも言えることでもあります)。

寄りかかることのできる支柱に強く絡みつけば、その支柱を失ったとき、自立には大きな痛みを伴いますし、洗練化には良い側面もあれば、濁りや亜流に不寛容にもなる側面もあります。
一度その方向に強く舵を切れば、多少の揺り戻しがあったとしても、この流れは年月を重ねるほどに非可逆なものになるというのが、歴史のほんの一部や大きな価値観を眺めて、わたしがぼんやりと抱いている印象です。

どう在りたいのか。なにを繋いでいきたいのか。その胎動を生かすも殺すも、当代の担い手はもちろん、支援者の眼や姿勢にもかかっている。わたしは、できることなら、より自然発生的な(ひとによって生み出されるものですからどうあっても人為には違いありませんが、そのなかでも)胎動を愛する傍観者でいたいと思います。



な〜んてことは、どうでもいいですね。
今回の認定の話題や、落語の世界の話からだいぶズレてしまった。しかもわざと抽象的に書いているので、せっかく読んでいただいても、きっと多くの方にとってはおそらくナンノコッチャですね。ごめんあそばせ。

ここから先はちゃんと、師匠のはなし。

そんなわけで、7月18日からこっち、自分の心に折り合いをつけるのが難しく、SNSなどのタイムラインがお祝いムードに溢れるなか、わたしは「お」から始まる言葉ひとつ、言えなかったのです。

でも、まあいいかなって。
わたしが師匠に直接何かを伝えられる立場で、師匠にとっておめでたいことならば、喜んでご本人にお祝いを申し上げたでしょうが、それが(わたしにとっては )単なる「SNSしぐさ」でしかないなら、別に言わなくてもいいよねって。言えない自分の厄介な性質になにやら悶々としちゃったけど。もう、いいね。


認定を受けてから、師匠はたびたび「これからも変わらない」というようなことを各所でおっしゃっていて、そのことにどこかほっとさせてもらった自分もいました。

けれど少し時間が経って、だれかが「変わらずにいてくれること」を強く期待するのは、もしかしたらとても残酷なことなのではないだろうか……と、思うようにもなっています。

この大きなラベルによって、御一門が「自由でいること」の選択肢を狭められたり、都合のよい消費に利用されたりしないようにと、願いつつ。
いちファンとして、「『人間国宝』の五街道雲助師匠」ではなく「五街道雲助師匠」を変わることなく、フラットに(ときどきウェットに)見つめていけたらいい。きっとこれからは、今よりもっとチケットが取れなくなるだろうけど、「何がなんでも」ではなく、無理せず、「観られるときに観る」姿勢は貫いていきたいなと思います。

「好きでいること」を頑張るようになってしまうと、そのうち疲れてしまうからね。どんなに好きでも、「熱狂」におどらされて自分を見失うことだけは、したくないです。

最初に心惹かれた師匠の、融通無碍を体現するような高座姿のように、わたしも自然体で、師匠の高座を拝見していけたらいいな。


noteだと人情噺の話ばかりだけど滑稽噺の雲助師匠だって大好きだ
期待しないと言いつつ、初席の浅草「勘定板」祭りはぜひ続けていただきたいです


だいすきです!


おしまい ♡

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