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余はいかにしてしこしこ教徒となりしか、

春だからしこしこばかりしている。暖かくなるとしこしこがしやすくなる。全裸で仰向けにならないと気分よくしこしこできない私にとって冬は不都合極まるんだ。何よりしこしこは金がかからなくていい。金をかけないと得られない快楽なんてのはだいたいろくなものではない。商品というのはいつだって罠だから。たいていの商品の裏には少しも必要もないものを買わせるための詐術がある。いい年してそんな認識も得ていない大人は腐った豆腐の角に頭をぶつけて死んだ方がいい。しこしこは「生きている他者」とは違って私を裏切らない。もっと早くこのことに気が付くべきだった。まじで。しこしこするたび疚しさや惨めさを感じていたあのころを思うと懐かしくなる。というか恥ずかしくなる。とうじは未熟だったんだ。しこしこを軽蔑していたんだ。それを「副次的(代替)手段」だと思いこんでいた。しこしここそが「生の醍醐味」だと認識できたのは三十に差し掛かったころだ。しこしこは下半身の祈りである。礼拝である。しこしこ教。ほとんどの人間は「内心」では敬虔なしこしこ教徒なのだ。ただ告白しないだけだ。誰もが恋愛という無理ゲーを強いられている。つまり(異性であれ同性であれ)他者との性交をしてこそ「まともな大人」だと思いこまされている。そんな害悪観念を私はもうとっくに捨て去っている。私にとって「生きている他者」はたいていの場合「不快と不安の源泉」でしかない。その彼彼女がどれほど「魅力的」に見えようと、日々その近くにいると、必ず幻滅させられる。「生きている他者」の魅力はほとんど幻によって構成されている。恋愛とは第一に、「生きている他者」のうちに「自覚されざる理想的他者」を見ることなのだ。見ているのは常に幻である。幻なしでは「恋愛感情」など五分も持続し得ないだろう。眼や脳の錯覚なしで手品が成立しないのと同じである。幻は必ずいつかは変質する。そんな果敢ないものにこの心身を託せるはずがない。少なくとも、しこしこ教的観点に立ってみるなら、「生きている他者」というのはすべて「裏切る他者」なのである。しこしこ教的観点からすれば、「裏切らない他者」はしこしこしている間(つまり祈っている間)しか立ち現れてこない。だからしこしこ中に観想されているこの何ものかをこそを愛するべきである。たしかにこれも幻には違いないのだけど、この幻は「生きている他者」を通して形成されるものではないので、きわめて堅牢な幻なのである。そろそろパスタ茹でようかな。

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