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痰壺迷想録(3/938)

◉「人々は」と口にするたび、私は、そのなかに自分を含めてはいないことに気が付く。「他の人々」もまた同様なのかもしれない。とすれば「人々」というのは一体どこにいるのか。「みんな」とか「世間」といったものはどこにあるのか。これは単純平凡ながら重大な問いである。

◉こんにちにおいて「多忙であること(多忙だと思われること)」は、凡庸人が自己愛を充足させる上で、ほぼ欠かせないことになっている。誰もが「無為」に過ごすということを最大限回避しようとしている。にもかかわずけっきょく彼彼女らは「無為」にしか過ごしていないのだ。そこには「観照(テオリア)の生活」が無いから。「下品な時代に生まれたものだ」。

◉邪悪な人間ほど並べてその邪悪さを巧妙に飼い馴らしてる。

◉誰もこの苦悩を分かってくれない、といった「嘆き節」に絡めとられている限り、何人も「孤独」の入り口にさえ立てないだろう。

◉「あらゆる親は毒親である」という命題における「毒」には三通りの意味がある。
一つ目は他者を自分の「人生」に巻き込むその巨大なエゴイズムの毒。
二つ目はそのエゴイズムに無自覚な鈍感さの毒。
三つ目はその「養育法」や「教育法」の如何にかかわらず必然的に行使されるところの関係暴力の毒。

◉他人のナルシシズムの脆さを知ること。繊細さ。

◉私の理想とする革命は、何かをすることではなくて、何かをしないことなのだ。「神話的暴力」の行使を無限に先送りすること。「共同体の持続」などを望まないこと。

◉「生き続けること」に恥を感じること。「生」を肯定しないこと。

◉人間のうち辛うじて受容できるのは希死念慮を持て余している孤独な青年だけ。

◉幼児と老人は妖怪。

◉「人間嫌い」と「社交性」はじゅうぶんに両立する。むしろ相性がいいくらいだ。無愛想(対人的無器用)な「人間好き」が世の中にいかに多いことか。

◉存在論的思考が出来ない人間と五分以上話すことは、私にとって、この上ない苦行なのである。

◉生物が死に絶えた地球を想像することは私を陶然とさせる。地球も死に絶えた宇宙を想像することはさらに私を陶然とさせる。

◉「出産奨励」などという不潔極まる言葉を口にする人間はすべて絞首刑に処するがいい。倫理的センスの欠如よりも美的センスの欠如の方がしばしば許しがたい。

◉外食が嫌いなのは、ものを食う人間の姿を見たくないからだ。「孤食の人が増えている」というが、いったいそれの何が問題なのか。醜いものを眼に入れたくない人たちが増えていることの、何が問題なのか。「まともな美的感性」の持ち主がもっと増えることを、私は望んで止まない。

◉「生きる意味とは」「生きることなんて召使いどもに任せておけ」。

◉就職活動に嫌悪感さえ抱けないような愚鈍な学生など採用したくない、という会社があってもいい。

◉「存在論的思索」から見放されている者は「存在していない」に等しい。というのも「存在している」という現存在自覚はまず認識論的に輪郭づけられなければならないからである。

◉ニートや引きこもりはかつての隠者や聖人の劣化形である。

◉自覚されざる絶望の一形態としての「家庭生活」。

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