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SNS写真のなかにはルッキズム的残酷さが凝縮されている

「見た目の可愛さ」「美しさ」「清潔感」といった評価属性にあらかじめ多大の注意を払わざるを得ないといういわゆる「ルッキズム」の支配性をなによりも実感するのは、インスタグラムやティックトックを眺めているときで他ではない。およそそこでは、自分の姿を主としてアップしたがる人と、料理や動物や風景といったものしかほとんどアップしない人とに、二分されている。こうした「分断」ほどルッキズム世界の残酷さを語るものはない気がする。SNS投稿における「撮影主身体の不在」のなかにもっぱら私が感じ取ってしまうのはそんな「心の闇」なのだ。自分の美的価値を最初からゼロに等しく評価しているがゆえに出しゃばって「作品中」に出て来ることはない。これを「哀しい謙虚さ」とでも呼ぼうか。身体を公開するに際しての抵抗感の有無、ここにこそ埋めがたい「美醜格差」を見ることが出来る。
そういえば、自分に自信のある「リア充」向けのSNSとされているフェイスブック上にも「透明な撮影主」は存在している。いま私は、ペットや子供の写真が使用されている「プロフィール画像」を思い浮かべている(あるいは拡大しないと顔の造作が分からない全身写真とか)。実名や出身高校や勤務先なんかをすんなりと公開できる人々も、顔写真を公開する段になるとどうも躊躇が発生してしまうようなのだ。

「ブサイク」「ブス」「不潔」なんて罵倒語が現代ほど殺傷力を高めた時代がかつてあっただろうか。「たかが見た目(見場)じゃないか」という種類の「慰め」が現代ほど空虚に響く時代がかつてあったのだろうか。こればかりは、アナール学派のような心性史研究をやってみないとはっきりしたことが言えない。「日本における美的身体観とまなざしの歴史」なんてかなり分厚くなりそうだぞ。あとで文献を博捜して見ようか。

ともあれ現代における「容姿弱者」はなんて哀しい存在なんだろう。「醜い」ということは最初から減点対象でしかないようだ。誰もそこまで露骨には言わないが「醜くあることは悪」であるようだ。
そんな「醜い」彼彼女らに出来ることといえば、その存在の惨めさを「ポジティブ・シンキング」で何とかごまかしながら、せいぜいオシャレな喫茶店のラテアートやキレイな夜景なんかをアップしては「わたし素敵ライフおくってます」と幸福を「偽装」することしかない。いやそれで惨めさやコンプレックスをごまかせているならいいんだけど。「幸福であること」より「幸福に見られること」により優位の価値を置く人々が多くなっている時代ですから。
とまれ存在の惨めさをごまかしきれない私は、今日もこうして呪詛めいた汚物をウェブ上に垂れ流しています。そろそろマスかいてメシ食って図書館行きます。

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