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他人から評価される違和感

初めまして、こんばんは。豆腐屋です。

生きてたら誰かに評価される事ばっかりやけど、心の底からうるさいねんってなるねんな。それが例えば、悪い評価ならもちろん腹立つねんけど良い評価やとしても心底辟易してしまう。今日は長年抱いてきたその「評価されることに対する怒り」についてできるだけ言語化して書きます。わかるわっていう意見も異論もすべて受け入れますので最後まで読んでいただけたらそれだけでものすごい嬉しいです。

思えば、小さい時から「通知表」がほんまに嫌いやった。小学生の時にもらった通知表に担任の先生からこう書かれてた。
「休み時間は多くのお友達と遊んでいて偉かったです。」
何がやねん。俺の事なめすぎやろ。俺は近隣トラブルを頻繁に起こしてきた住人か。性格的に一人よりも誰かと居るのが心地いいと思うタイプやし、当時の俺は友達と遊びたいから一心不乱に遊んどんねん。そのピュアさはその担任の先生からのお褒めの一文を読んだあとに壊されたような気がすんねん。その評価を知ってしまったせいで多くの友達と活発に遊ぶのが尊い行為で、そうじゃないとあかんみたいに感じてもうてる俺がおるから嫌やねん(もちろん、当時の担任の先生がクソ忙しい中俺みたいな生徒含めて一人一人気にかけて観察してくれてた上での一言やという事はわかってるし、俺のおかんとおとんに学校での息子の様子を端的に伝えてくれた一言やということは痛いほどわかってるので凄く感謝はしてます)。

そのあとに続いていく学生時代も私生活でもサッカーしてる時も就職してからも常に評価されてきた。勉強ができるとかでけへんとか、出身大学がどことか、女性に気が利くとか利かんとか、残業してでも仕事を頑張ってるとか頑張ってないとか。
評価される度に自分の中でなんかおかしいなぁ、いやだなぁいやだなぁと稲川淳二さんみたいにひしひしと違和感を抱きながらなんとなくその場の空気を読んでその場にいる評価者(学校なら先生やし、スポーツなら監督やし、会社なら上司になる)達に好かれるだろう行動を意識的に取って長い物にはこれでもかと巻かれまくってきた純日本人的な俺なんやけど。

最近聞き出したような気がしてる、ルッキズムの問題とかジェンダーの問題と俺が長年抱いてきた評価されることに対するイラつきの問題も同質のものじゃないかっていう気がするねんな(俺なんかの悩みよりもその他の問題はさらに高度で複雑な問題や思ってます)。

とりあえず、俺が一番言いたいのは自分の評価は自分でさせてくれという事やねん。「君ってこういうところあるよね」って謎の定義づけしてくるとか、「〇〇大学ってことは真面目なんだね」ってコミュニティによって人間性をカテゴライズしてきたり、俺の人生の一瞬に立ち会っただけの癖に斜め上のポジショニングから、したり顔でそれっぽいアドバイスしてくるけどわざわざ言うてくれんでも自分のことは自分が一番わかっとんねん。その意見は俺には雑音でしかないねん。29年間日本で生きてきた俺の全身はもう日本人としてのプログラミングが完了してて他人から評価されたいってすぐに思ってまうねん。お前の評価によって俺の中の何かが簡単になびいたり壊れる可能性があんねん。絶対に迷惑かけへんから自分の人生は俺の好きにさせてくれ。

褒めたつもりかもしらんけど、「いい子やね。」っていう言葉はその子どもを24時間365日いい子でおらなって縛る首輪になってたり、何気なく言うた髪型とか体形とかファッションへのいじりは言葉を受け取った相手の個性とかアイデンティティに土足でお邪魔してるだけで悪い影響を与える言葉になってるかもしれんというリスクがあんねん。

じゃあ、何も言われへんやん!とかちょっとした褒める事もするなというならそもそもコミュニケーション自体が取りにくくなるじゃないか!っていう意見があるかも知らんけど、その人にはめんどくさいこと言うて申し訳ないねんけど、世の中には褒める事に対しても少し嫌やって感じる人間がおるんやってことを知ってくださいって言うてるだけやねん。他にも私は褒められるならなんでもうれしい!っていう人とか、指摘されたり、評価される事で人間は成長するんや!っていう人達に対してはそれはそれで素晴らしい物事の捉え方やし俺もその意見には賛同するし良い気持ちの持ち方やなと思ってる。そういう人たちがいる事ももちろん知ってる。ただ、自分達が住んでる村とは違う村には俺みたいなやつが住んでることを知っといてほしいねん。

最後に俺と同じで誰かに評価される事に嫌気がさしてたり、疲れてたり、もしかしたら周りの目が気になって生きることに絶望してる人がいたらしつこいけど「自分の評価は自分でしよう」と言いたい。もちろん、それを盾に周りの大切な人とか公共の場とか社会に迷惑かける事は論外やけど。
いつでも何歳でも自分がやりたい事をやればええし、着たい服を着たらええし、やりたい髪型があるならやったらええし、どんな趣味を楽しんでもええし、性別にとらわれず誰を好きになってもいいし、その気持ちを伝えてもいいし大切にしまっててもええし、結婚してもええしせんでもええし、違う形があってもいいし、子どもができたらその人生は最高やし、もしなんらかの事情で子どもができなくてもその人生は最高やし、いじめられてるような場所にずっとおらんでええし、嫌いな奴に人生の時間を使わんでええし、嫌な職場で朝から晩まで頑張らんでええねん。アフリカを生きるシマウマはトラとかライオンがおったら逃げな死ぬねん。どこのシマウマが俺はここで逃げたら逃げ癖がつく思ってライオンの群れの近くで自分の命を賭けた我慢比べすんねん。そんな巨人の星みたいな精神力のシマウマ可愛げないわ。なんで同じ動物やのに人間だけつらい状況で逃げたらあかんねん。死にたくなる状況でも逃げたらあかんって思うなら人間は動物じゃない特別な存在かなんかやとでも思てんのか。自分の命が危ないと思ったらシマウマの様に軽快に素早く戦略的に撤退して生存競争で勝って生きてください。

ちょっと話がそれだけど、誰かに評価されなあかんとか、評価軸を他者に置くことは絶対にやったらあかんねん。シンプルに自分が自分を見て良いと思うか悪いと思うか、それだけで行動を決めて快活に過ごしましょう。

通知表ではその小学生の子が持つ魅力の全体0.0001%も表されへん。それと同じ様に他人からの評価なんかでお前の魅力を全て語るなんて絶対にでけへん。この事実を親に通知表を渡すのを嫌がってた小学生の俺と他人から評価される事に違和感を持つ同志に伝えます。

この評価される事についての違和感というか怒りの感情についてどっかの偉い教授が理路整然と解説してたり言語化してはる論文があったら是非、教えてください。

最後に、このnoteは絶対に好評価してください。

以上。なんの話やねん。
おやすみなさい。

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