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旅のスケッチ レーの冬、デリーの春

こちらは、インド編、ネパール編に続くふたたびのインド編です。

カトマンドゥからデリーに向かう飛行機がハイジャックのために飛んでいないという噂をポカラで聞いて心配していたけれど、飛んでいないのはエア・インディアだけで、ロイヤルネパール航空は普段通り予約できたので安心していたら、旅行会社のミスでチケットのフライトナンバーと時間があっていなかった。しかも、勝手にリコンファーム(予約の再確認)が別の時間でされていて、大いに焦ったのだけれど、当初の便にキャンセル待ちで無事乗れてことなきを得た。

デリーには夜到着。普通のタクシーではボラれるに違いないと思ってプリペイドタクシーでニューデリー駅まで頼んだところまではよかったのだけれど、その後インドらしくなってくる。タクシーでまず旅行会社へ連れていかれ、ホテルの予約をするように言われる。高いホテルに泊まるお金はないと断り続けて、15分くらいしてやっと出発したと思ったら、また同じような店の前へ。今度は3分くらいの停車で済む。

道すがらHOTELホテルとうるさく言われ、それでもやっとニューデリー駅近くのコンノートプレイスに到着。駅まで頼んだはずだというと、この先の道は細いからと、輪タクに乗り換えさせられ、5ルピーでいいという。

あと少しで駅だというのに、丸いコーナーを回って細く暗い路地へ。駅はあっちでしょ、と指ささすも、こっちだと暗い貨物駅のようなところへ連れていかれると、待ち構えていたような男の人が輪タクを手で停めて運転手に何事か話しかけ、私のほおをひっぱたいてきた!

友人は怒って止めに入り、運転手に車を出すように言うが、運転手はへらへらとしている。なんともおかしなシチュエーションで、運転手とぐるなのは明らか。

車は元の道を戻り、運転手は駅は危ないからホテルに案内するよとかなんとかかんとか言い出す。なぐられたほおはじんじんと痛いし、恐ろしいわでドキドキしながら、友人と逃げるようにもうここでいいからと5ルピーを無理やり握らせて車を降り、本当のニューデリー駅を探して歩いた。たどり着いた駅はもちろん明るく人にあふれていて、安堵する。駅近くの安宿を自分たちで探す。

帰る予定の日まであと1週間ほど。デリーの街なかや近郊の町を訪れる選択肢もあったのだけれど、チベット仏教に興味のある友人の希望もあって、インドのはずれ、ラダック地方のレーを訪れることにした。

観光局に相談に行くと、既にレー行きの飛行機は満席だと言われ、旅行会社を紹介される。実際に航空会社に聞いても満席だというので、チケットの斡旋をしている紹介された店へ。

チケットの計算では10%taxとunder the tableと書かれた加算がされていて、つまり堂々とソデの下を要求しているということ。手数料ということなんだろうけれど、書き方がすごい。良心的に考えれば、難しい英語が通じないからわかりやすくしてくれていただけなのかもしれないけれど。

加算分を引いた金額でしか領収証は書けないというので、どうしてだ、と言い張っていたら、なぜかtaxは5%にまけてくれた。

予約の飛行機を待つ間は、フマユーン廟やプラーナ・キラーへ。

翌々日早朝、レーへの飛行機は雲の上を飛ぶ。突如、思いもかけぬ近くに雪山が見下ろせたと思ったら、茶色にところどころ雪の見えるラダックの盆地へ着陸。外国人登録をしてタクシーへ向かうと、ガイドブックにあったとおりの値段を言われる。やはりデリーとは大違いだ。

レーはインドの最北部、標高3650mと、富士山の頂上よりも高い場所にある。飛行機で行くと急激な標高差で高山病になる人も多いらしい。確かにだ、と息切れしながら王宮へと至るという路地をゆく。本当にこれが王宮へ向かう道なのかと思うほど細く、舗装されていないのでほこりっぽい。

まだ開館時間にならないらしく、通りがかりのゴンパ(チベット仏教寺院)から町を見下ろしていると、お坊さんに王宮へ行くのかと尋ねられた。この人が鍵番だったらしく、一緒に王宮を案内してもらう。観光客の全くいない冬のレー。でも、天気が良いせいか、思ったほどには寒くなかった。

王宮から見たレー市街 村といった風情

町の人たちはみな、民族衣装に身を包んでいる。分厚いえんじ色のフェルトでできた首から足首まで覆われるようなコートにはボタンはついておらず、着物よりも深く前を重ねたら布のベルトを結んで留める。どうしても欲しくなって友人とふたり、市場で購入して着込んだ。着てみるとずっしり重くて、息切れがひどくなりそうだったけれど、気分はこれでラダック人だ。

実際、夜になるととても冷えて薪ストーブを焚いても寒かったので、このコートが役立った。宿では風呂がわりにふたりでバケツ半杯のお湯がもらえただけだったので、布団の中でもコートを着てしのいだ。

レー自体はとても小さな町で、歩いて回れるのだけれど、周辺に点在するゴンパへはかなりの距離があるので、翌日はタクシーでいくつかのゴンパを巡ることにする。

ゴンパは僧院とも呼ばれ、仏像が安置されているだけではなく、お坊さんが修行する場で、出家した人の学校のような場でもあるという。崖の上にそびえる城砦のような建物は白い壁に小さな窓が穿たれていて、来る人を拒むかのようなイメージがある。

内部は一転して丹色に塗られた柱、極彩色の布や曼荼羅が描かれた壁画があり、黄金色をした華やかな仏像がびっくりするくらい近くで微笑んでいる。

いくつかのお寺ではにこやかな僧侶が、寒かったでしょうとクッキーとバター茶をふるまってくれた。立ちのぼる湯気があたたかい。

曇りがちな空は暗く、明かりもほとんどないような室内はさらに暗くてお坊さんの顔も見えないほどだったけれど、この閉ざされたような空間には確かに慎ましくあたたかな暮らしがあるように感じた。

ヘミス・ゴンパの僧侶 掛け軸と仏具のようなものを運んでいる

ラダック地方最大と言われるヘミス・ゴンパは標高が高く、雪山の中腹のようなところにある。気温は今までよりもさらに低く、車が道をあがっていくにしたがって心臓がドキドキしてきた。高山病だろう。

曇りがかった白っぽい空、白茶けた土の色と同じ色の建物、その上に積もった雪は固く氷のようになっていて、一面が白っぽい世界の中で、えんじ色の服を着た僧侶が経典だろうか、掛け軸と仏具のようなものを運んでいた。外の炊事場のようなところには、大きな釜で食事の準備をしている人々が和やかにおしゃべりしながら火にあたっている。修行の暮らしをもっと見ていたかったけれど、友人は高山病なのか手足がしびれてきたというので恐ろしくなって残念ながら早々に退散した。

マト・ゴンパからヘミスゴンパへ向かう途中の橋 タルチョがはためいていたのは橋の中央

道中で何度か橋を渡った。インダス川の上流だ。水は寒々とした青色をしている。橋にはどこもこれでもかというくらいに五色の旗がはりめぐらされていて、これがタルチョと呼ばれているもの。旗には経典や仏像のようなものが描かれていて、風ではためくごとにお経を読んだと同じことになるといわれている。ラダックでは橋や家のてっぺんなど、風が吹くところにはこのタルチョがつけられている。

ネパールのスワヤンブナートという仏教寺院でも同じようなものを見たけれど、この、なにもない風景の中で寒風にさらされてひたすらはためいているからこそ、旗は人々の信仰を集めて生きているように思えた。冬だったこともあって全体に白っぽい寂しげな風景のラダックで、五色の旗があるところだけは賑やかで、動きがある。ラダック人でなくとも、あの色とりどりの旗をはためかせたくなるのはわかる気がした。

ティクセ・ゴンパ、かつての王宮があった場所だというシェー・ゴンパを巡り、最後はマト・ゴンパへ。ここでは明日と明後日が祭りの日だというが、朝一で行ってみると今日の夕方にも踊りが見られるというので、その時間に合わせて再訪した。

マト・ゴンパの祭りを見る人々 中央奥の僧が舞をしている

高台にある寺院には時間にあわせて多くの人が集まって来る。男性は特に普段と変わらない格好だが、女性はおさげ髪に山高帽のような、神社の屋根のような形のつばのついた独特な帽子をかぶり、袈裟のような華やかな刺繍の施された布をまとった美しい装いをしている人が多い。特に高齢の女性は華やかで、ヤクの毛皮のようなものをまとっている人もいた。

寺院の広場で舞が始まる。上半身裸の二人の僧が走り回って各部屋を行き来し、刀を研いで自分の胸に当てて切ろうとするのを、止め係がなだめて、最後には担ぎ上げられてお堂へ入ってしまうというものだった。どういう意味があるのかはわからないけれど、言葉がなくても楽しめる。日本の神楽に通じるような、コミカルさがあった。まだ本祭ではないからだろうか、人の数もまばらで、のどかな雰囲気があったのがよかった。

レーの町の夜。帰り道空を見上げると、見たことがないくらい星だらけの空が広がっていた。

インドであってインドではない文化のラダック地方。今にして思えばなぜもっとゆっくりとこの町にいなかったのだろうと思うくらい質素な人々の暮らしが垣間見えるよいところだったのだけれど、友人の次の予定があったりして、旅を終える日は迫っていた。何より寒かった。再び日本に帰るためにデリーへ戻る。

3月20日。デリーのホテル。
朝から窓の外には不思議な緊張感が漂う。ホテルの2階の部屋からメインバザールの狭い通りを見下ろすと、水鉄砲や色粉を持った人たちが通りを通る人を待ち構えて狙い撃ち。外を歩いている人の服はみな、インド人も観光の外国人もピンクや緑に染まっている。これがホーリーと呼ばれるヒンドゥー教の春を祝う祭りだった。半ば暴力的にカバンも服もカラフルになって笑い合う人々。これがインドの春らしい。

食事のために完全武装してドキドキしながら出かけたのだけれど、お店はどこも休み。仕方なく少し高級なホテルでインド最後のランチ。道中で色粉を顔や服につけられた。帰りは輪タクに乗ろうとしたら、運転手はいくらもらっても中へは行きたくないというので、歩いてメインバザールを通ったのだけれど、もうみんな飽きてしまっていたようで、ほとんど水をかけられなかった。拍子抜け。

再びスリランカで語学留学の続きをするという友人、旅のハプニングをくぐり抜けてきた同士と別れて、私はひとり、帰国の途についた。

勤めていた会社が倒産して旅に出た私はまだこれからどうするかは何も決まっていなくて、明日からも特にやることはなかったのだけれど、インドの春の祝福を受けた後では、なんだか晴れやかな気分が続いていた。

インドに行って何か変わっただろうか。清潔であることは普通ではないし、きれいにしなくても平気で生活している人がたくさんいることを知った。バクシーシ(施し)を当然のようにする側もされる側も受け入れている社会には、カースト制度がしっかりとある。人類みな平等と言われて育った私には解せないところも多々あるけれど、でもそれは、インド人でない私がとやかく言えるようなことではないような気もした。

お金持ちは当然のように貧しい人に施しをする。平気で人を騙したり、悪いことをする人々がたくさんいるけれど、でもその中で和やかに普通に暮らしている人があふれているのがインドだった。

当時の私には、インドから帰ってきたところでちょっと度胸がついたくらいで大して変わったことはなかったように思えていた。でも、そのちょっとの度胸や、あの時の経験に比べればこれくらいはまだまし、と思える余裕のおかげで、ちょっとずつその時いたところから踏み出して進んで来た結果が今の私で、多分、何かは変わったんだろう。

それともうひとつ。
吊り橋効果という言葉を聞いたことがあるだろうか。不安を感じる場所で一緒に過ごしていると恋愛感情を抱きやすくなるというやつだ。行く予定だったほかの一人が行けなくなったせいで、たまたま一緒に旅に出ることになったこの時の友人とは、その後数年の時を経て、人生を共にするパートナーとなった。そのことがよかったのか悪かったのか、私には未だに決めかねているけれど。

当時の旅帖に描いてあった持ち物リスト
おみやげリスト

※レー編については、印象に残っている場所なのに、寒かったせいかスケッチは表紙にあげた1枚しか残されていなかったので、当時の写真を参考に改めてスケッチを描きました。


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