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旅のスケッチ 一度は印度へ

スナフキンが好きだ。持ち物を最低限しか持たず、音楽を奏で、自由に好きなことをして暮らす。誰しも一度はそういう、旅暮らしに憧れるのじゃあないか。若かりし頃の私ももれなくそうで。

ちゃんと勤める会社があり、住むにも食うにも困らない、何不自由ない暮らしだからこそ、そういう自由に憧れていたんだろう。

そんなある日、勤めていた会社が倒産した。給料の未払いもあったけれども、失業保険は出るし、帰れる実家はあったし、あまり心配はしていなかった。そもそもその会社に一生勤めたいと思っていたわけでもなかったので、ちょうどいいタイミングだ、くらいに。

これを機に何か、今しかできないこと、例えばバックパッカーでもしてみたいなと思った。そうだ、一度は行ってみたかったインドに行こう。

どうしてインドなのか。もうずいぶん前のことでちゃんとした気持ちは思い出せないのだけれど、沢木耕太郎「深夜特急」の影響は大きかった。他にも、藤原新也の「印度放浪」「西藏放浪」「全東洋街道」を見て、生と死がとなりあわせのガンジス川の風景に憧れていた。

インドに行けば何か変わるかも、今までの常識とは違う世界が、インドにはあるように思えていた。なにより、このタイミングを逃したら、長期間旅に出られることもないだろうと思っていた。一人でいきなりインドのバックパッカーは不安だと思っていたら、同じく倒産した会社の同僚が一緒に行こうと手をあげてくれたので、その流れに乗った。最初は3人で行く予定だったのが途中で一人行けなくなってしまったのだけれど、このチャンスを逃すべきではないと思い、そのまま決行した。

旅のスタートは当時ボンベイと呼ばれることも多かったムンバイから。同行することになった同僚がその数週間前からスリランカで語学留学をしていて、そこから来るのに都合が良かったからムンバイ待ち合わせになったのだったような気がする。

関空発の飛行機がムンバイに近づくと、大陸にものすごい崖のような段差があるのが見えた。あとで調べるとその標高差700mほど。なにしろ、ダイナミックなところに違いないと期待が高まる。

空港に降り立ったときの、街全体に漂うスパイシーな(日本人にとってはカレーの)香りが強烈だった。真冬の日本から、むんと暑く重い湿度のムンバイへ。旅が始まった。

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エレファンタ島へ向かう船上にて

一泊目の宿は日本からユースホステルを予約していたのだけれど、そしてその手配は私がメールやらパソコン経由のfaxなどでしていたはずなのだけれど、行ってみるとそんな予約はないと言われ、今日は満員だと言われてしまう。多分、私のミスなのだけれど、インドあるあるなのかもしれず、スタートから行き詰まる。結局安宿を探して泊まることに。クーラーは一応あったものの、その室外機の中にハトが巣を作っていてろくすぽ涼しくならないような部屋だった。聞いていたとおり、シャワーは一応温水付きであったが熱湯か水どちらかしか出ず、洗い終わる頃になってやっと適温が出るというもの。これでこそインドだ。

ムンバイで記憶に残っているのは、他にいくあてもないので船で片道45分かけて行ってみたエレファンタ島から戻る船を待つ場所で、海とたわむれていた女性。ひらひらとしたサリーが逆光に透けて、水しぶきが跳ねて一コマの写真のようだった。写真には撮っていないのに、記憶の中に画像が焼きついた。インドの女性はみなサリーを着ているんだなーということに驚き、しかもそのどれもが美しい色と模様のとりあわせなのに見とれていた。

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アウランガバードへ向かう列車の車窓から

大都市ムンバイの次に向かったのは遺跡があることで有名なアジャンタとエローラ。アウランガバード行きの列車で内陸へと向かう。

私は車窓の風景が好きだ。どこの国でも、車でも列車でも、寝ているよりは景色を見ていたいほうだけれど、内陸へ向かうインドの列車の風景はかぎりなく薄茶色で、ところどころに丘があり、街があり、申し訳程度の木々があり、という感じで変化はあまりなく人の気配もない。それがひとたび駅に着くと、たくさんの人が乗り込んできて、カレーとナンよりは薄く丸い焼いたパン、チャイやらサモサのようなスナックを売りに来るのには驚いた。都市と郊外の差が激しい。

もっともこれは、日本以外の多くの国がそうであろうに違いない。広大な国土を持つ中国を列車移動した時にも、多かれ少なかれそんな感じだった。日本ほど細やかに風景がめぐる国を私は知らない。つまり、国土が狭いということなんだろうけれど、それにしても、日本ではどこへ行っても変化のある車窓が楽しめると思っている。

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IGATPURI駅のホームにて

郊外の町近くにはたくさんの煙突のある工場が見えて、どうやらこれはレンガを作る工場のようだ。話には聞いていたけれど、このあたりへ来るとチャイは置くことすらできないほど安定感のない逆さ円錐形の小さな素焼きのカップに注がれて、飲み終えると皆がそれを地面で叩き割って捨てていた。あまりにかわいらしい素焼きのカップをそっと荷物に入れて持ち帰ったのが私のインドでの一番お気に入りのおみやげだ。

土から作られたものが土に還る、なんら不思議ではないけれどたぶん相当手間のかかることがこの頃のインドにはぎりぎり残っていたのかもしれない。そう思いながらも、インドのことだから今でもあのカップが作られていたりして、と調べてみたら、どうやら2年前の記事にて、このカップが脱プラスチックの流れで復活したという記事を見つけた。なんだかうれしい。


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ひたすら続く茶色の大地

エローラの遺跡は仏教窟とヒンドゥー教窟、ジャイナ教窟からなるが、広大すぎて全部は回れず、中央のカイラーサタナー寺院からジャイナ教窟までを見た。帰りのバスの中は超満員。でも、外国人の私にみな親切で、降りる人がここに座ればいいと声をかけてくれたり、席を詰めてくれたりした。

アジャンタ石窟群は紀元前1〜6世紀ごろの仏教寺院の跡だという。川沿いの、U字型に囲まれるように切り立った広大な崖にいくつもの石窟が掘られていて、中には美しい壁画や、仏像があったりなかったり。大きなものは神殿のような佇まいをしている。

仏教遺跡というのだから、日本人になじみがあろうかということになると思うけれども、時代も違えば国も違うので当然、日本の仏教とは全然違っていて、異国の神のための施設という感じがした。こんな風土のこんな国で生まれた一つの宗教が、場所を変えて伝わりながら変化して、私たちのなじみのお寺にある宗教になってきたんだと思うと不思議な気がする。

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アジャンタ石窟寺院

アジャンタ石窟寺院の中をじっくり見るにははライトを当てるためのライティングチケットを買う必要があるのだけれど、石窟に入るたびに受付の人が目印なのかチケットの端を破るので、しまいにはボロボロになってしまった。

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アジャンタの崖に穿たれたたくさんの石窟

帰りのバスでは子どもたちが、プレゼントと言って小さな石をくれる。割れている石の中には、水晶なのだろうか、きらきらする結晶が詰まっていて、どうやらおみやげ屋への案内をしているらしい。私は宝石には全く興味がないけれど、じゃがいものような石くれの中から輝く結晶が現れる鉱石はなんだか素敵に思えて、まんまとおみやげ屋らしき路上の石屋から石を買ってしまう。どうやら子どもたちはお父さんに弁当を届けるついでに、こうして店にお客を案内して稼いでいるようだ。

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街角にあったヒンドゥー教の寺院

この旅に出てから既に長い年月が経っている。私が旅で得たものは数枚のスケッチ、写真、旅の間のメモやレシートなどを貼り付けた旅帖と、だいぶ薄らいできている記憶くらいなのだけれど、観光地の珍しい風景よりも、不思議となんでもない街中の一コマのような風景が鮮やかに記憶に残っていたりする。スケッチをしていればなおさらで、改めて、現場でスケッチをすることが記憶の定着に役立つことを感じる。まれに、それ以外でも、朝のホテルで眠さと戦いながらパッキングした部屋の中だったり、名も知れない町の横断歩道を渡るときに見た街路樹だったり、なぜそこを私は覚えているのだろう?という場面を覚えていることがあるのはどうしてなのか、今だに謎だ。

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なにげないジャルガオンの町

ジャルガオンという町から急行列車に乗った。発車時間まで半日ほど、地方都市といった趣のジャルガオンをぶらぶらする。路傍のヒンドゥー教の寺院の壁の色と、象の神、供えられた鮮やかなマリーゴールドの花輪。野犬。町を行き交う人を見て、ああ私はこの人たちと多分二度と会うことはないのだろうな、と思ったことを何故か今でも覚えている。

急行列車はジャルガオンからほぼ24時間かけてヴァラナシへ向かう。インドにはカースト制があるだけあって、列車にはいろいろクラスがあったと思うのだけれど、さすがに長時間乗るのでグレードの高い座席にした。2段の寝台で、エアコン付き。食事もいつになるかはわからないけれど、頼むと持ってきてくれた。トイレはやっぱりひどい有様だったけど、インドではこれが普通に違いない。途中、大きな町の近くでは、通勤列車のような電車が屋根にまで人を乗せる光景を見た。ある時はしばらく何もないところで停車してみたり、歩くほどゆっくり走ったりしながら列車は大陸を越えて行く。

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ヴァラナシへ向かうエクスプレス

音楽というのは、私が旅先で気になるもののひとつだ。言葉はわからなくても、旅先の食堂などで聞こえてくる演歌のような彼の地のはやり歌のラジオなどを聞くのが好きだし、民族音楽ももちろん聞いてみたい。ということで、ヴァラナシではインドといえばの弦がたくさんあるギターのような大正琴のようなシタールを聞きに行った。

この時のスケッチによれば、弦は全部で18あるのだけれど、そのうち弾くための弦が5本、残りは共鳴するための弦で、この弾かない弦のおかげで、あの独特のインド風のふわふわと複雑な音が漂うシタールの音ができあがるらしい。

あまりの美しい音色に、楽器を買って帰りたくなったほどだったけれど、この先の旅程で持ち歩く大変さを思い、あきらめた。よく考えてみたら、弾き方もわからず教えてくれる人もいない楽器なんて買って面白いわけがなかったのだけれど。

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シタール弾きのお兄さん

インドで一番行きたかったのがヴァラナシだ。生と死が隣り合わせのガンジス川で沐浴する人々に会いに行ってこそインドに行く意味があるように思っていた。やはり、ここは聖地だけあって、半裸に全身白塗りで、髪は何年も洗っていないようないかにもな風体の人が多くいる。このいかにもな方々はヒンドゥー教の修行僧でサドゥーというのだそうだ。

ガンジス川の沐浴場、ガートにはサドゥーをはじめ、沐浴をする多くの人や観光客、観光客を待ち構える商人などがいてにぎわっている。昼近くに行ったのでもう沐浴している人は少なく、神聖さは思ったほどではなかったけれど、手や足だけ浸かって沐浴気分を味わうとなんだか私も少しはインドになじめたような気がしてきた。

別にその日を狙って行った訳ではなかったのだけれど、ヴァラナシに到着した日に、ヒンドゥー教の祭りが行われるという話だった。昼間行った生地屋のムスリム(イスラム教徒)には危ないから行かない方がいいと言われていたのだけれども、こんなチャンスはないとばかりに、同僚とふたり、夜の町へと繰り出した。

昼間も人が多いと思っていたヴァラナシだけれど、夜の賑わいは想像以上。ものすごい数の白塗りや、半裸の人々が踊ったり、叫びながら道を練り歩いていて、所々にはけばけばしい電飾や花で飾られた山車があり、その上では若者が盛んに何かを撒き散らしている。街角にも花で飾られた一角があり、そこを通る人々に緑色の飲み物を配っている。皆が飲めという手振りをするので、あれは何かと聞くと、ハーブの入ったラッシー(ヨーグルト)だと言われ、恐る恐るいただいた。まあ、あたると嫌なので飲むふりをしてほんの少し舐めただけだけど。

祭りの人込みにもみくちゃにされ、気がつくと、胸やおしりを触られたり、痛いほどつねられたりした。同僚はそんな私を守ろうとしてくれていたのだけれど、逆に蹴られたらしい。

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ヴァラナシのガート(沐浴場)

その時の私たちはそれが何の祭りかさえよくわかっていなかったのだけれど、どうやらヒンドゥーの神々の中でも主なもののひとつ、シヴァ神の祭りだったらしい。人混みをかきわけて這々の体でなんとか宿屋に帰り着き、シヴァ神について調べようと地球の歩き方を読んでいた私は驚愕する。

この祭り、マハ・シヴァラトリは、年に一度セックスの神様、シヴァが眠る日とされている男の祭りで、この日は女性に手出しをしてもいいとされているので、特に女性は夜に出歩くと危険、と書かれていた。そして街角で配られていた緑色の飲み物、バング・ラッシーとは、大麻の入ったラッシーのことだそう。

ムスリムが行かない方がいいと勧めてくれたのにももっともな理由があったのたっだ。勧められるままにそんなもの飲んでいたら、お腹をくだすどころではない大変な目にあうところだった。無事帰ってこられたのは実にラッキーだった。

さて、ヴァラナシの次に向かったのは、国境の町、スノウリ。今回、ネパールにも行ってみたくて、ここから陸路でネパールの高地、ポカラへ向かうことにした。スノウリ行きのバスは夕方5時到着のはずか、着いたのは21時過ぎ。これでこそインドなのか。そしてとうとう、同行の同僚が発熱した。

ネパール編、ふたたびのインド編につづく


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