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江戸時代に学ぶ政治家の矜持

新型コロナウィルスが全世界に猛威を振るっています。
この流行の最初だった中国では感染は落ち着いているようですが、諸外国では感染者は増え続け、特に欧州は鎖国状態に陥っています。

自分は、政治家とは平時には国を栄え、富ませるべきであり、有事においては、率先して国と民を守るべき役割を担う存在だと認識しています。そのために国から高い給料をもらう権利を持っているのだと。

しかし、今回の新型コロナウィルスにおける政府の動き、与野党の政治家の動きは申し訳ないですが、1国民としては「大丈夫か?」と心配でなりません。

自分は趣味で歴史研究をしているものなので、昔の政治家は有事に当たってどう動き、何をなしたのかを紐解いて見たいと思います。

日本史上最大の火事・明暦の大火

西暦1657年(明暦三年)旧暦一月十八日、現在の東京都豊島区巣鴨5丁目の本妙寺近辺から出火し、瞬く間に神田、京橋、小石川、飯田橋、麹町などの江戸市中の大半を焼いた大火災が起きました。

これを「明暦の大火」。もしくは「振袖火事」と言います。

この大火では約10万人が死傷したと伝えられており、西暦1638年(寛永十五年)に完成したばかりの江戸城天守閣も焼き落とし日本の歴史上最大の死傷者と損害を出した大火事となりました。

この時、徳川幕府は四代将軍・徳川家綱の時代に入っていましたが、まだ若干16歳でした。よって将軍親政ではなく、政治の実権は幕閣が握って執行される、いわゆる「文治政治」が緩やかに始まっていました。

この時の幕閣は
■大政参与(将軍後見役/重大事差配)
保科正之(陸奥会津藩23万石/左近衛権中将・肥後守)


■老中(現在で言う所の閣僚)
松平信綱(武蔵川越藩6万石/老中首座・伊豆守/別名:知恵伊豆)
酒井忠清(上野厩橋藩10万石/左近衛権少将・雅楽頭/別名:下馬将軍)
阿部忠秋(武蔵忍藩6万石/豊後守)

の顔ぶれで運営されていました。

この時、大政参与の地位にあった保科正之が、率先して大火の対応に当たったと言われています。

明暦の大火における保科正之および幕閣の対応

正之は大火の一報を受けると、将軍後見役という立場から将軍家綱の身を案じ、急ぎ外桜田御門内の屋敷から江戸城に登城しました。

登城した正之は、まず、江戸城の米蔵を開き、火事で焼き出された江戸市中への炊き出しを独断で決定します。これは徳川幕府が危急の時の備えとして溜め込んだ備蓄米と言われています。

また、正之は火事で建物が消失したのを契機とし、老中と相談して江戸の都市設計の見直しと防火対策に注力しました。具体的には下記の政策です。

1、主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅。
2、藁葺きの建物を止め、板葺きと瓦葺きに強制的に変更。
  ※そのための援助金は幕府が支給。
3、幕府による物価統制令を発令し、材木の値上げを防止。
4、江戸市中に新堀を開削。神田川を拡張。
5、隅田川に新しい橋として両国橋を設置。
6、上野、両国などに火除地を5箇所設置。
7、犠牲者慰霊のための万人塚(現在の本所回向院)を建立。


特に5と6については、当時の隅田川には、江戸の防備の関係で千住大橋(足立区と荒川区を結ぶ)しか橋がなく、大火の時に火の勢いが強くて川が渡れずに死傷者の増大に繋がったこと。そして、江戸市中において焼き出された人たちの避難所と呼べる場所がなかったことから、いずれも江戸の防災能力向上のための政策でした。

また、これらに加え、老中首座・松平信綱らが中心となって、諸大名の参勤交代の停止と、在府大名の早期帰国を促しています。これは江戸の人口を減らし、江戸の食糧不足の解消に寄与したと言われます。

当時の幕府財政はまだ潤沢に資金があったのですが、それでもこれだけの投資と都市改造を行えば、流石の御金蔵も底をつくわけで.......その結果、犠牲になったのが江戸城天守閣の再建でした。

江戸城天守閣の再建について

実は江戸城天守閣は過去に3回建て直されています。

最初は初代将軍・家康期の慶長度(1607年)、次に二代将軍・秀忠期の元和度(1623年)、最後に今回焼け落ちた三代将軍・家光期の寛永度(1638年)です。

当然、幕閣および有力大名家なども再建する考えだったと思うのですが、保科正之はこれと真逆の考えを持っておりました。それは

「天守というものは、軍事的機能として遠方の状況把握。または権力の象徴としての建造物であり、城の守りに必ずしも必要なものではない。そもそも今の徳川家の御世のどこに戦があろうか。それよりも今やるべきことは江戸の都市改造の方である」

というもので、これは当時としては非常にブッ飛んだ政策と言えます。
徳川幕府の権威の象徴である天守閣よりも、江戸市民のための市中政策の方が大事だと言い切ったわけですから。

正之のこの提言により天守閣の再建は見送られ、以後、二度と江戸城に天守閣が立つ日はきませんでした。

囚人の期間限定解放

明暦の大火の幕府の対応は、保科正之、松平信綱らの采配で食料支給と金銭援助等の緊急政策、そして大火鎮静後の江戸の都市改造政策により、江戸の都市防災機能を向上させました。

その結果、以後、徳川時代を通じて発生したどんな火事も、この大火を越える被害は出ませんでした。

また、この明暦の大火において、もう一人、自己の職務判断で幕府に無許可で見事な采配を取った者がいました。

江戸伝馬町牢屋敷の牢屋奉行だった石出吉深という者です。彼は伝馬町牢屋敷に火が迫ってくると、数百名の囚人を自己判断で勝手に解放しました。
その際

「よいか。この大火から無事に逃げおおせた後は、必ず再びここに戻ってくるように。もし戻ってきたら死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せる。ただし、この機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗してやるからそう思え」

と言いながら、囚人たちを解放したそうです。

このまま伝馬町牢屋敷に残されれば、囚人たちは間違いなく焼死するのは必定でした。しかし、解放されれば一時的に避難ができ、命を永らえることができます。この吉深の判断と決断に、囚人たちは泣いて喜び、そして後日、その約束どおり、全員伝馬町に戻ってきました。

吉深は戻ってきた囚人たちの前で

「お前たちは罪人だ。しかし罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。お前たちのような者達をみすみす死罪とする事は、長ずれば必ずや国の損失となる」

と言い、解放する際の約束である罪一等の減刑を老中に嘆願。幕府も収監者全員の減刑を実行しました。それだけでなく、吉深が行ったこの行為が前例となり、徳川幕府時代においては「解放後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪」として制度化されることに繋がっています。

今の世の中であれば、刑務所が火事になり、法務大臣の許可なく、刑務所長の独断で収監者全員を解放することですが、前例のない状況で吉深のような対応ができる人間がどれだけいるでしょうか。

今の新型コロナウィルスの時代に、保科正之、松平信綱、石出吉深のような人間がいたら、どういう対応するだろうか。非常に興味深いところです。


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