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第13話「日向出兵」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1570年(元亀元年)8月20日、肥前国今山(佐賀県佐賀市大和町付近)で起きた大友軍と龍造寺軍と局地的合戦(今山の戦い)で、大友軍は総大将の名代にして大友宗麟の弟・大友親貞が討ち死にし、数千の兵を失いました。

60,000兵の大友軍にとって、数千の兵を失ったことは体勢に影響はないものの、宗麟の弟である大友親貞が討ち死にしたことによる士気の低下は避けられず。とりわけ宗麟のショックは凄まじいものがありました。

一方で佐嘉城の龍造寺軍では奇襲攻撃をかけた鍋島信昌の名声は高まり、城内の士気は一気に高まったものの、数万の大友軍を相手に再度戦いを挑む猛者はいませんでした。

大友軍が龍造寺軍からの再度の攻撃に備え、龍造寺軍は大友軍の弔い合戦に備えて佐嘉城の守りを固めており、しばらくお見合いの状態が続きました。

和睦

今山の戦いから1ヶ月が過ぎた同年9月下旬。佐嘉城の龍造寺軍では食糧の補給問題を抱えていました。佐嘉城の戦力は5,000足らず、60,000の兵に総攻撃をかけるのは自殺行為。しかし補給のないこのままの状態では全員飢死にしかありませんでした。

そこで鍋島信昌は主君・龍造寺隆信に和睦の申し出を行います。

龍造寺家臣の中には、そのうち大友軍の中の国衆の中から厭戦を嫌い、国に帰ろうとする者が出てくる。その時を狙って、ゲリラ戦を仕掛ければいいという意見もありましたが、信昌は言いました。

「大友勢数万と言えども、大将が討ち取られれば士気の低下は止められぬはず。しかもあれからひと月も経つのに弔い合戦を挑んでくる様子もありません。そして我らとて援軍のあてもなくこのまま篭城しても食糧が尽きて先はない。であるならば、先の戦(今山)の勝利の分がある状態で和睦を切り出せば、我が方に有利な状態で和議が締結できるのではないでしょうか」

信昌の言葉に筋が通っていました。それが隆信の心を動かし、同月末、龍造寺は大友に和睦の打診を行います。

龍造寺から提示された和睦条件は

1、龍造寺家は大友家に従属する。
2、龍造寺家の領地割譲は行わない。


上記2点でした。
大友家に従属する代わりに龍造寺の領地を安堵してほしいという条件です。
どう見ても強気丸出しの高圧的条件でした。

しかし、宗麟はこの和睦条件を呑みました。
食糧の問題は大友側も同じで、遠征に出ている分、補給線が長く、その警固を考えると、コスト的に割りが合わなくなってきたのです。

ただし、宗麟は従属するからには龍造寺家の血に連なるものを人質に差し出せという条件を新たに追加し、これを龍造寺は受け入れました。

龍造寺家から人質に選ばれたのは、隆信の異母弟・龍造寺信周でした。
隆信の次弟ですが、異母弟のため、家中での位置付けは末弟の長信より軽く扱われていたようです。

この信周は、佐賀藩成立後に須古鍋島家を興し、彼の子孫は江戸時代を通して鍋島氏の家老職を勤めることになります。

同年10月1日、大友と龍造寺の間で和睦が成立。宗麟は本拠・豊後への帰途についています。

宗麟は龍造寺家を従属させたことで、肥前における大友氏の支配領域を拡大させることに成功しました。しかしそれは大友の家臣としての龍造寺が直轄しているだけで、大友氏の肥前支配は形式および建前に過ぎませんでした。

そして、龍造寺が存在する限り、大友は肥前に対して主たる軍事活動を起すことができなくなったのです。

一方、隆信は大友家に従属したといえ、これまでの自分の実効支配領域の直轄を安堵されました。このため、東からの外敵の心配がなくなり、安心して肥前における自勢力の拡充に務めることができたのです。この結果、龍造寺はどんどん力を蓄え、やがて九州三大戦国大名(大友、島津、龍造寺)の1つにまで成長するのです。

また、今山の戦いの翌年である西暦1571(元亀二年)、宗麟の三家老の一人で、大友家の軍神と言われた戸次道雪は、宗麟の命令で一時断絶していた筑前立花氏の名跡を継ぐことになり、名を「立花道雪」と改めます。同時に筑前守護代となり、家老(加判衆)から外れました。

宗麟の変心

今山の戦いの後、弟・親貞を失った影響からか、宗麟に心の変化が芽生え始めます。

宗麟は「二階崩れの変」で父・義鑑より、家督と豊後・筑後の守護職を継承し、菊池氏を攻めて肥後の実効支配を強化した後、中国地方の毛利氏と門司城争奪戦で勝利。豊前、筑前の実効支配を確定。結果、豊前、豊後、筑前、筑後、肥後、そして肥前の北部九州のほとんどの支配領域に組み込みました。

そのいずれも戦いによって勝ち取ってきた「覇者の道」でした。
ところが、彼は自分が歩いて来た「覇者の道」そのものに疑問を持ち始めるのです。

これまで戦い続けた疲労と、実弟を失った心の空虚が、彼の中の「戦国大名としての意識」に変化を生じさせたのかもしれません。何れにせよ、これがやがて宗麟をキリスト教への信仰へ繋げていくことになります。

宗麟のキリスト教への信仰は、単なる礼拝に留まらず、断食や寺社の否定にまでエスカレートしていきました。それがこれまでなんとか保って来た大友家臣団や国衆たちの結束に少なからずの動揺を与えていったのです。

そして西暦1576年(天正四年)、宗麟は大友家の家督を嫡男である義統に譲り、自らは丹生島城(臼杵城:大分県臼杵市)へ隠居します。但し、当主としての実権は宗麟が持っていました。

またこの頃、大友家は織田信長と誼を通じ始めていました。この時の信長は中国地方の国衆である浦上、三村、宇喜多を牽制させ、毛利氏と戦わせながら、織田と毛利は裏では微妙に繋がっている複雑な関係になっていました。

その緊張が、信長が追放した足利幕府十五代将軍・足利義昭を毛利輝元が庇護したことでプッチン切れて、毛利が反信長勢力となったため、織田としても毛利の背後を突く存在として、大友家と繋がる必要性があったと考えられます。

伊東義祐の豊後亡命

宗麟は、北部九州を平定したことで大友氏の実効支配領域を史上最大版図に広げ、中央政権である織田信長と誼を通じ、戦国大名としての大友家を盤石な体制を整えました。

しかし、ここから先、大友家は南九州の勢力争いに巻き込まれて行き、それが大友家自体を揺るがすことになっていきます。

西暦1577年(天正五年)、南の隣国である日向(宮崎県)をほぼ一円支配していた戦国大名、日向伊東氏当主・伊東義祐の一行が島津氏の日向侵攻に敗れて、豊後に亡命してきたのです。

伊東氏の先祖は、鎌倉時代に伊豆国伊東庄(静岡県伊東市)を本領とする御家人でした。室町時代初頭に、足利尊氏より尊氏の正室赤橋氏の所領である国富荘(宮崎、佐土原、清武、西都、新富の宮崎平野一帯)を守る為、都於郡(西都市大字鹿野田字高屋)に三百町の領地を賜り、日向国に下向した由緒正しき一族です。

伊東氏は南北朝の争乱を利用して領土を広げ、南の薩摩国の島津氏、大隅国の肝付氏を圧迫し、肥後人吉の相良氏などと協調しながら、日向国内に伊東四十八城という巨大な外城ネットワークを作り上げたのが、日向伊東氏十代目当主の伊東義祐でした。

しかし義祐は徐々に京風文化に溺れて武威がなくなっていき、西暦1572年(元亀三年)に真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で起きた、島津氏当主・島津義久の実弟で日向飯野城主(宮崎県えびの市大字原田)であった島津義弘との戦いに大敗し、伊東氏の主力及び若手武将がほぼ全滅する事態に陥ります。

この結果、伊東家家臣団に不協和音が生じ、そこを島津氏の調略につけこまれ、内山城主(宮崎市高岡町)野村文綱、三ツ山城主(宮崎県小林市)米良矩重、野尻城主(宮崎県小林市野尻町)福永祐友ら日向国の南西方面の城を守っていた家臣達が次々と伊東氏を離反していきました。

日向国南西部が島津氏の支配下に入り、なおかつ、日向国南部支配の拠点である飫肥城(宮崎県日南市)島津忠長(図書頭)らの攻撃を受けて持ちこたえられず、城主である義祐三男・伊東祐兵一行が佐土原城に転がり込んできました。

さらにこれまで同盟関係にあった日向国北部の国衆である県土持氏(宮崎県延岡市一帯を支配)当主・土持親成が、伊東氏の門川城(宮崎県門川町)を攻め始めたため、伊東氏は北と南の前後に敵を持つことになってしまいました。

事態を憂慮した義祐は本城である佐土原(宮崎市佐土原町)を維持できず、若くして亡くなった義祐嫡男・義益の正室・阿喜多が宗麟の姪であったことから、佐土原を捨てて一族郎党を引き連れ、宗麟を頼って北上し、米良山中から高千穂に抜け、豊後入りしてきたのでした。

宗麟は、姪である阿喜多、そして義祐三男祐兵の妻の阿虎を丹生島城に入れて生活を面倒を見、義祐と嫡孫の義賢、祐勝、そして三男祐兵とその家臣である川崎祐長などには城下に屋敷を与えて住まわせました。義祐一行の面倒は、宗麟の腹心で義兄でもある田原親賢があたったと言われています。

義祐が豊後に亡命してきた理由はただ一つ。大友氏の助力を得て、今一度日向に攻め込んで島津氏の勢力を日向国から排除することにありました。しかしこれには宗麟は気乗りしませんでした。日向国は山間部が多く、平野部が少ないことから、国力がそれほど豊かではないと考えていたからです。

しかし、その宗麟の考えは思わぬところで変わってしまいます。
それは、長年同盟関係にあった県(あがた)土持氏当主・土持親成が島津氏に臣従したという報が入ったのです。

県土持氏

土持氏は、元々宇佐八幡宮(大分県宇佐市)にゆかりのある一族で、平安時代あたりから宇佐八幡宮の荘園の管理や、郡司クラスなどの地域の要職を務め、日向国に多くの分家を輩出し、その支配力を強めていきました。

一説によれば、古代日向に絶大なる勢力を持っていた日下部氏と縁戚になり、日下部氏一切の権益を譲り受けたとされています。

鎌倉時代に入ると、幕府より宇佐八幡宮関連の荘園の地頭職を拝命しました。

室町時代になって前述の通り伊東氏が下向してくると、当初は共に武家方(幕府方)として南朝方の勢力の駆逐という目的で共闘しました。しかし、南北朝が統一されると関係が悪化し、伊東氏が財部土持氏(宮崎県児湯郡高鍋町一帯を支配)を滅ぼした際に決定的な断絶に発展。以降は県土持氏は大友氏のバックアップを得るため、大友氏に臣従していました。

今回の県土持氏の裏切りは、伊東氏の勢力が日向国より駆逐され、島津氏の日向支配が実効を帯びることにおいて、土持氏として、島津氏を敵にすることは得策ではないという判断だと考えられます。またその判断には宗麟が日向国への関心が薄いことと、宗麟のキリスト教への帰依自体が、宇佐八幡宮を出自とする土持氏には受入れ難かったかもしれません。

宗麟の決断

土持氏の島津氏臣従により、宗麟は自分の本領である豊後(大分県南部)と島津氏の実効支配領域の最北である日向との国境で勢力を接する関係になりました。

もはや、宗麟に日向への興味があるなしではなく、大友氏として島津氏の北上を国外で迎撃しなければ、本領である豊後を奪われかねないと状況に発展していました。

また、伊東義祐の出兵依頼だけでなく、いまだ日向国内で孤軍奮闘している伊東方の勢力が門川、塩見、山陰(宮崎県日向市周辺)には存在しており、彼らからも援軍依頼が当主・大友義統の元に届いていました。宗麟だけでなく、義統も大友を守る為には島津氏と一戦する必要があることを考え始めていました。

ただ、長年宗麟に仕え、いまや筑前立花氏の家督を継承した立花道雪や、大友家軍師・角隈石宗はこの日向出兵には反対していました。

道雪は、島津と戦うには、十分な兵力を以て当たらねば勝てぬことは察しており、それは中国の毛利氏、肥前の龍造寺に対し隙を与えることにつながることから、いずれは雌雄を決する時が来るが、今はその時期ではないと宗麟を諌めます。

石宗は、軍師という観点から

「宗麟の年齢が四十九歳の厄年であること」
「奇門遁甲(方位学の一種)からみて、未申(南西)の進軍に吉がないこと」
「昨今、夜空に浮かぶ帚星(彗星)の動きに凶事の予兆がみられること」


を挙げて、宗麟を諌めました。
しかし、宗麟は道雪の言う事も、石宗の言う事も、聞こうとはしませんでした。

そもそも関心をあまり持っていなかった日向国について、なぜ宗麟は出兵を考えるようになったのか、それは単に県土持氏の裏切りが原因ではありません。

宗麟はこれまでの「己の歩んで来た覇道」を省みて、特に今山の戦いで実弟大友親貞を失った反省から、戦いの虚しさを悟り、救いを求めるかのようにキリスト教への帰依を強めていました。

キリスト教を盲信的に信仰するようになった宗麟は、まだ見ぬ日向国に出兵する目的として、島津氏の勢力を排除し、親戚である伊東氏の支配を復権させるという大義名分以外に、日向国を自らが作る「キリスト教王国の礎」にしようと考えていました。この世のキリスト教の楽園を自らの手で日向国に作るという新しい野望を抱いたのです。

戦いの虚しさを悟り、家督も嫡男・義統に譲った宗麟が、キリスト教のための楽園を作るという目的をもった途端、俄然と野望に燃え上がりました。それ故、日向出兵に拘り始めたのです。ぶっちゃけ伊東氏の復権とかは二の次です。元々強力な実行力を持つ宗麟のこと、こうなるとたちまち軍事活動を開始し始めます。

しかし、宗麟のキリスト教信仰が宗麟と大友家家臣団との間に溝が生じつつあったのですが、そんなことは御構い無しに日向出兵計画は進められていくのでした。

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