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日本版ロベスピエール?〜理想を突き詰めて自滅した男・平頼綱〜

先日、下記のnote記事を読みました。
この記事はロベスピエールが良い悪いを論じているのではなく、ロベスピエールがもつ理想論が己を生かし、そして己を死に追いやったことを淡々と論じています。

私はロベスピエールは革命家としてはめちゃくちゃ有能だと思ってます。人々に今とは違う理想の政治と社会を掲げ、そのために大衆を先導し、見事その目的を果たしてしまうわけですから。

ただ、彼は理想を追求するあまり、多くの敵を作ってしまった。そしてその敵によって、自分がこれまで理想のために葬ってきた人間と同じ方法(ギロチン)で処刑されてしまいます。

このロベスピエールの記事を読んで「そういえば、日本にも似たようなことをやって、似たような最期を遂げた人間がいた」ことに気づきました。

その人の名前を平頼綱(たいらのよりつな)と言います。

御家人(ごけにん)と御内人(みうちにん)

時代は今からおよそ800年前の鎌倉時代後期になります。
1185年(寿永四年)に源頼朝が鎌倉幕府を作ったものの、頼朝自身の血筋はたった三代で滅び、その後、御家人(鎌倉幕府に忠誠を誓った武士たち)たちの血みどろの仁義なき戦いを経て、幕府は執権職(将軍補佐)を務める北条得宗家(本家)の支配下にありました。

鎌倉幕府8代執権を務めた北条時宗(得宗家出身:蒙古を2度撃退したことで有名)の時代になると、これまで幕府を支えてきた有力御家人と、北条得宗家の私的な家臣である御内人との間に勢力争いが生じていました。

この頃の有力御家人の筆頭は安達泰盛です。源頼朝が流人(罪人)だった頃から従ってきた安達盛長を祖先に持ち、前述の仁義なき戦いを生き残って、北条氏と縁組を重ね、幕府最大の御家人になっていました。

これに対する有力御内人が平頼綱です。代々北条家得宗に仕えてきた家柄の生まれで、御内人の筆頭である「内管領(ないかんれい)」の職にありました。さらに幕府の御家人統括機関である侍所(さむらいどころ)の所司(次官)の地位にあり、北条氏や有力御家人の会合である寄合衆にも参加を許されるなど、御家人をしのぐ勢力を持ち始め、さらに時宗より、息子・貞時の傅役(養育係)を任されていました。

頼綱による北条家中の粛清

西暦1284年(弘安七年)4月、元寇の後始末もつかない状況で北条時宗が死去しました。北条得宗家及び執権職を後を継ぐのはわずか12歳の息子・貞時。まだ少年と言ってもいい若さであったため

「おい、あんな若い執権で大丈夫なのかよ......?」

という動揺が御家人の中で走っていました。蒙古の襲来が終わった直後で、恩賞などの事務処理を溜まっており、幕府と御家人の関係もギクシャクし始めていたからというのもあります。

ここで、頼綱は「自分が貞時様を支えて、北条得宗家の執権体制を強固なものにしなければいけない」と考え、自ら貞時の補佐役として動き始めます。

まず、時宗が亡くなった聞いて、急遽、京都から鎌倉に戻ろうとした六波羅探題北方(鎌倉幕府京都北部統括責任者)の北条時村を、三河国矢作(愛知県岡崎市矢作町)で足止めさせ、京都に追い返しています。これは御家人たちが不安を抱いている鎌倉に入ることで、無用の混乱が起きることを防ぐためですね。

一方で、同年6月、元々悪い噂が出ていた六波羅探題南方(鎌倉幕府京都南部統括責任者)の北条時国をクビにし、常陸(茨城)に追放した後、同年10月にこれを殺害しています。時国の後任は時宗の甥・兼時(得宗家出身)であることから、執権の代替わりで京都が騒動にならないように動揺の押さえのための配置と思われます。

同年7月、貞時が鎌倉幕府第9代執権に就任。その翌月、今度は北条時国の叔父・北条時光が興福寺(奈良県奈良市登大路町)の満実という僧侶と結託して、謀反を起こそうとしているという事件が起き、頼綱はこれを拷問の末に自白させ、佐渡島に追放しました。

こんな感じで北条家中における騒動の種を次々と潰し、執権体制を固めていく頼綱でしたが、一方で幕政を固めていたのは安達泰盛でした。泰盛は時宗ば亡くなった翌月から弘安式目と呼ばれるルールを制定し、次々と条項を追加して元寇の後の幕政の立て直しを行っていました。

頼綱が北条家内部の安定を固め、泰盛が幕府内部の安定を固める体制は、それぞれの役割で結果を出しており、案外うまく行っていました。しかし、泰盛は得宗家の家臣に過ぎない御内人の台頭をよく思っておらず、御内人の幕政関与を抑制する方向を打ち出していき、両者はまたしても険悪な状況になっていきます。

頼綱による安達氏の粛清

西暦1285年(弘安八年)11月17日、頼綱は貞時に対し

「安達宗景(泰盛嫡男)殿が謀反を企て将軍になろうとして源氏に改姓しました」

と上申しました。さすがの貞時も「埒も無いこと」と一笑に付しましたが

「安達宗景の曽祖父・景盛殿は頼朝公の御落胤とも言われております。これを以って源姓を僭称し、その威光で御家人を束ねられては、北条得宗家に取っては一大事になります」

と強く迫りました。この時点で、鎌倉幕府創設の功臣の有力御家人は安達氏しか残っていませんでした。また泰盛が御家人サイド筆頭で幕政を支えている要職にいることから、確かに安達がクーデターを起こされれば、日本中の御家人がそれに従う可能性は高く、そうなればまさに得宗家の危機であることは間違いありません。

貞時は悩んだすえに頼綱の上申を受入、頼綱に安達泰盛追討を命じます。頼綱は同日12時頃、塔ノ辻(鎌倉市笹目町)の安達泰盛邸を急襲し、安達一族30数名を討ち取り、泰盛、宗景も自害して果てています。

また頼綱は安達の所領であった上野(群馬)、武蔵(埼玉)の両国にも追捕使を派遣し、安達に通じている御家人をこの機会に一掃しています。これを「霜月騒動」といい、安達氏は一時的に滅亡すると共に、幕府から御家人勢力が一時的に一掃されてしまいました。

頼綱による幕政の掌握(恐怖政治の開始)

有力御家人の安達氏を滅亡に追い込んだ頼綱は、幕政を北条氏の中で比較的家格の高い名越流、大仏流を中心に再編成し、内政の執行部隊に頼綱の一族である長崎氏を登用。政所、問注所などの幕政機関に多くの文官を登用して、北条氏と御内人で幕政を掌握できる基盤を作り上げました。

要するに、幕府の中に外から余計なチャチャを入れられないような、自分に都合の良い仕組みを作り上げちゃったわけです。

幕府を支配下においた頼綱は、安達泰盛に心通じる地方御家人を徹底的に排除する行動を行っていき、やがて京都の朝廷にも介入していきます。

当時院政を行っていた亀山上皇は泰盛と通じていたことから、幕府は西暦1287年(弘安十年)、亀山上皇の子で天皇の地位にあった後宇多天皇から、皇太子であった熈仁親王に譲位(伏見天皇即位)するように働きかけ、亀山上皇の院政を停止させています。

さらに頼綱は同年、皇族より臣籍降下し、鎌倉幕府7代将軍に就任していた源惟康を皇族に復帰(惟康親王)するように朝廷工作すると、執権貞時の命令として西暦1289年(正応元年)9月、惟康親王の征夷大将軍職を解任することに成功。京都に送還させています。

この時の送還はもはや追放と言えるぐらい酷いもので、「とはずがたり」によれば、親王が輿に乗る前から将軍御所は武装した武士たちが土足で入り込み、女房たちは慌てふためいて、親王も前後逆の輿に載せられるなど、もう無礼の極みここにありという状況だったようです。

頼綱は執権就任時の幼い貞時の執権権力を強化するため、自らが矢面となって様々な施策を行いました。結果として貞時の威厳は高まりましたが、同時にそれを補佐する頼綱の権力が強化されるのも当然でした。

それは頼綱の慢心にも似たものだったのかもしれません。

それまで、幕府の重要政務の命令書には必ず得宗(執権)の花押がありましたが、頼綱が安達泰盛を滅した霜月騒動以後、得宗花押のない命令書が発行されています。

つまり頼綱は、自らが発行する命令書に、自分の主人である得宗のお墨付きを必要と考えておらず、得宗をなきがもの同然に扱い、独裁専制を行っていたのです。

頼綱の最期(平禅門の乱)

頼綱は幕政における権力は人事権においてのみで、それも執権・貞時の承認の元に成り立っていました。つまり、頼綱が選んだ御家人を評定衆などの幕府要職に起用できても、自らが評定衆・引付衆の一員として、陣頭指揮を取って政治を行うことは、頼綱の身分が御内人(北条得宗家の家臣)の立場では無理があったのです。

やがてその政権運営は御家人たちの中から不満がふつふつと上がってきます。頼綱はそう言う機微を察することには長けていたため、御内人に監察権を与え、御家人の評議等を監視することを始めます。しかし、これが逆に御家人との間の不満を大いに高めてしまいます。

「このままだといずれ頼綱と御家人の間にまた大きな騒動が起こりかねない」

この時、貞時はすでに20歳を超えて青年として成長していました。頼綱は自分の乳母父であり、自分を支えてくれた恩人でもあったため、これを排除することは頭でわかっていてもとても難しいことでした。

しかし、そのチャンスは意外にも早くやってきました。

西暦1293年(正応六年)4月12日、現在の鎌倉市を震源地とした関東地方南部の広範囲の大規模地震が発生しました。神社仏閣を中心として多くの建物が倒壊し、約2万人以上の死傷者を出したと言われます。現代の科学によるとマグニチュード8ぐらいの大きさだったようです。

「いまだ、今しかチャンスはない」

そう考えた貞時は、鎌倉にいた主だった御家人に平頼綱追討の命令書と使者を使わします。

この時、貞時が使った大義名分が

「頼綱は次男の資宗を将軍に据えようと画策している」

というものでした。
まぁ、はっきり言って、嘘八億でしょうね。

頼綱次男の飯田資宗は、西暦1289年(正応二年)将軍惟康親王が京都へ送還された後の新将軍・久明親王を迎えるため上洛し、この時、検非違使(京都市警察本部長)に任じられています。その後従五位下に叙位、受領職である「安房守」に任じられており、御内人としては異例の出世を極めていました。

これに対し、嫡男の平宗綱は弟の出世を見て「オヤジは弟に家督を譲るつもりに違いない」と嫉妬心を出し、また惟康親王送還の際のやり方に反感を持っていたため、前述の言葉を貞時にチクったようです。

執権からの命令を受けた御家人は、地震被害も収まらない中、武装して頼綱の経師ヶ谷(神奈川県鎌倉市材木座あたり)の自邸を急襲。自分の運命を悟った頼綱は自害し、次男飯沼資宗を含め一族約百人は滅亡しました。これを「平禅門の乱」と言います。

「平禅門の乱」を一言で片付けるとするならば、「時の権力者が地震のドサクサに紛れて邪魔になってきた家臣を殺害した事件」と言えるでしょう。

その後の北条貞時の治世

頼綱滅亡後の貞時は、頼綱が残してくれた権力基盤を自ら運用し、その得宗の権威と権力を以って「霜月騒動」で冷遇された御家人や安達一族の者を幕閣に起用していきます。

同時に頼綱時代の人事を刷新し、従兄弟である北条師時(時宗同母弟・宗政の子)連署(副執権)に据えて自らの補佐役とし、頼綱亡き後の内管領には、従兄弟の北条宗方(時宗異母弟・宗頼の子)を置きました。北条一門の人間が御内人のトップになるのは異例のことですが、頼綱の一族である長崎氏を幕政から遠ざけるにはこれしか方法がなかったのかもしれません。

さらに、西暦1293年(永仁元年)鎌倉幕府の訴訟審議機関だった「引付衆」を廃止し、新たに「執奏」という役職を設けます。この執奏に選ばれたのが

北条顕時(金沢流北条氏 ・北条実時の子/安達泰盛の娘婿)
北条師時(宗政流北条氏・北条宗政の子/幕府連署/後の10代執権)
北条宗宣(大仏流北条氏・北条宣時の子/後の11代執権)
長井宗秀 (御家人/母が安達義景の娘)
宇都宮景綱(御家人/妻が安達義景の娘)
北条時村(政村流北条氏・7代執権北条政村の嫡男)
北条公時(名越流北条氏・北条時章の子)

上記7人でした。霜月騒動で滅ぼされた安達氏と関係の深かった人間が3人入っているのが特徴です。貞時はこの執奏を編成し、訴訟裁決を得宗の専決事項にすることで、得宗専制体制を強化していきました。
(とは言え、執奏制度は翌年にはなくなってますが)

平頼綱は北条得宗家に支える御内人から内管領になり、そして執権に裏打ちされた権力を巧みに操って、幼い執権を補佐しながら、北条得宗家による専制体制を基盤化することに成功しました。頼綱亡き後、貞時が自ら専制体制を構築できたのは、頼綱の基盤があってのことだと考えられます。

頼綱が身分を超えて上席である御家人と勢力を張り合い、有力御家人の安達氏を滅ぼしてまで、北条得宗家の権力強化を謀ったのは、全て、幼い貞時が一人前の執権として権力が振るえる環境を作るためのものであると考えています。その結果、北条得宗家の専制支配が確立し、元寇で不安定になっていた幕政が一時的に安定したのは結果オーライと言うところでしょうか。

しかし、どんなに目的が崇高なものであっても、頼綱のやり方は身分を超えた越権行為であり、それが行き過ぎたために、幕府内に敵を作り、最終的に奉るべき主君に命を奪われることになるとは、なんとも皮肉な話だなと思うところです。

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