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大鹿城(茨城県取手市)

大鹿城があったとされる取手競輪場を訪ねる。大鹿城が取手(とりで)という地名の由来という説もあるようで、競輪場の看板にはまさに砦との表記。

大鹿城の伝承

日本歴史地名体系では、大鹿城に拠った大鹿氏が登場する雁金山の戦いの伝承が述べられている。1561年、小文間城一色氏が敵対していた大鹿城大鹿氏を攻撃。大鹿氏は稲城高井氏に助けを求める。また柴崎城荒木氏は城主不在の小文間城を攻撃。その報を聞いた一色氏は小文間城に引き返す途中、雁金山で高井氏と荒木氏に挟撃され敗北。史実かどうかはさておき、取手一帯の戦国期のイメージ膨らむ伝承だ。

1561年の雁金山の戦いを図示。

撮影地点

大鹿城に関する情報は少ないがネットで見つかる先人のレポートを参考にすると、台地の先端の飛び出したような部分に本丸があり、その北側の広大な部分も城域だったとの推定も見つかる。明治迅速測図には広大な部分に土塁のような表現もある。

大鹿城域を巡る

大鹿城があったとされる取手競輪場。その駐車場はとにかくだだっ広い。無いとわかっていても城の遺構を探してしまう。

地点Aのあたりの台地の縁の盛り上がり。土塁かな?いや駐車場の車止めか。

立体写真

遺構ではないが地点Bのあたりには、馬頭観音の碑と巨木の切り株の列。神社でもあったのだろうか?Wikipediaによると競輪場の前には競馬場があったようだが、馬頭観音の碑と関係あるか?

地点Bから弘経寺を眺める。戦国期には存在した寺なので、城とも何らかの関りがあっただろうか。谷に下りる道があったので、下ってまた登る。

地点Cあたりから本丸があっただろう方向を眺める。本丸があった部分は大半が削られてしまっているが、わずかに残った付け根の部分かも。こちらのページには削られる前の大鹿城の写真が掲載。

大鹿城があったとされる取手競輪場がある台地の崖下を歩く。弘経寺の山号以外に、大鹿という地名が建物の名前に残っていてうれしくなる。

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