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瓜連城(茨城県那珂市) 2023年3月

常陸国の南北朝動乱の舞台として有名な瓜連城。南北朝期の城であり、現在は常福寺の境内ということで、遺構はあまり残ってないと思い込んでいた。実際訪ねてみると、その思い込みが吹き飛ぶ、迫力ある遺構が残る城郭だった。

瓜連城の歴史

図説 常陸武士の戦いと信仰」をもとに、瓜連城の歴史を要約。南北朝動乱の背景となる歴史は後醍醐天皇による建武政権樹立から始まる。政権樹立に貢献した楠木正成に、鎌倉北条氏が支配していた瓜連一帯が恩賞として与えられ、一族の楠木正家が配置。久慈川の低地を望む台地上に立地する瓜連は、久慈川沿いに常陸と奥州をつなぐ南郷道が通じる交通の要衝でもあった。

足利尊氏と後醍醐天皇との争いが勃発。瓜連に近い常陸太田に拠っていた佐竹氏は足利方につき、鎌倉時代に奪われた瓜連一帯のかつての所領の奪還を画策する。一方、北畠顕家が支配する奥州と常陸の南朝方をつなぐ交通の要衝となった瓜連を死守する必要が南朝方の楠木正家には生じる。楠木正家は瓜連城を整え、佐竹方の侵攻に備えた。

1336年に佐竹貞義率いる佐竹勢の瓜連城攻撃が開始。最終的に瓜連城は落城するが、貞義の子の義冬の討死や、同族の幸乙丸の反旗など、佐竹一族内の消耗も激しい戦いだったようだ。楠木正家は河内へと落ちのびた。

瓜連城跡に常福寺が建てられたのは1388年と現地解説板。焼失を契機として現在地に移転してきたようだ。

瓜連城の撮影地点

瓜連城の遺構は久慈川の低地に面した台地の縁に多く残るだけでなく、深い空堀が台地内にも残る。遺構はカシミールスーパー地形でもくっきり現れる規模だ。

瓜連城の遺構

常福寺境内を南から北へと抜けて、本堂の裏手に来ると平坦地が広がり、その縁には土塁が見られる地点A。

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地点Cには両側に空堀が設けられた長く直線的な土塁。

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直線的な土塁上の地点Dから眺める。土塁の端には稲荷神社が鎮座。

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地点Dから、土塁の西側の空堀を眺める。東側の空堀は浅いが、西側の空堀はとても深く、堀底に道が通じている。

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地点Eから台地の縁に沿う土塁の連なりを眺める。

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地点Fの台地の縁の土塁に立ち、崖の中腹の腰曲輪を見下ろす。

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地点Bから腰曲輪へと降り立った地点Hでの眺め。

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台地の崖を取り巻くような腰曲輪を地点Kから眺める。

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地点Mから台地へと深く入る空堀を眺める。左の斜面上に地点D~Eの土塁。

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地点Pにも台地に深く入る空堀。こちらには入口に空堀を示す看板が立つ。

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地点Pからの空堀は堀底を歩けるくらいに藪がはらわれている。地点Qから空堀を振り返る。

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瓜連城の台地の北側に回り込み、地点Rから高くそびえる城を見上げる。腰曲輪のような何段かの平坦部があるように見える。

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瓜連城の台地の北側の低地から久慈川方向を眺める。


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