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守谷城探訪(茨城県守谷市) 2022年12月

秋の紅葉を見に行った際、ここ数年で守谷城がさらにわかりやすく整備されたと知り、改めて訪ねた2022年冬の守谷城。

最近出版された「守谷城と下総相馬氏」の内容が反映されたと思われる解説板が城内の要所に設置。城の歴史だけでなく、遺構の見方をイラストとともに解説。イメージしやすい解説を通じて実物が味わえる城は貴重。解説はネットにもあり

今までは大空堀のゲートが閉まっているのが通常だったが、現在は開放。大空堀だけでなく、画像左手の御馬家台曲輪にも入ることができた。城内は全体的に藪が取り除かれ遺構が見やすくなっている。

守谷城は下総相馬氏の城である。

下総相馬氏が足利義氏の御座所として小田原北条氏に進上した結果、北条流の技巧に満ちた戦国の城に改造。ただ、義氏の御座所となることはなかった歴史。

撮影地点図

守谷城の遺構撮影地点(リンククリックで別ウィンドウにTwitter上の図)。想像たくましく描かれた解説板のイラストを拝借。

清水門から御馬家台曲輪へ

地点Aの清水門から出発。
地点Aの清水門の位置に残る土塁を立体写真。
地点AからBへと向かう道沿い。右手の谷津をのぞき込む立体写真。
地点Bには馬出しがあったらしい。現在は城址公園の駐車場とトイレがあって便利。
地点Bから地点C(斜面林の中)を眺める。間には引橋が架かっていたと推定されている。
地点Bから主郭部を守る堀のような役割を果たした谷を眺める。 
脳内で木橋を渡った気になって地点Cから地点Bを振り返る。実際には 地点I→J→Gを経る遊歩道を歩いてたどり着く。
地点Cで曲輪側を振り向くと目の前にあるのが枡形虎口。立体写真で眺める。
地点Cの枡形虎口を抜けて御馬家台曲輪に入り、振り向いて眺める枡形虎口。立体写真で眺める。
枡形虎口横の地点Dの櫓台に登り、枡形虎口を見下ろす。
地点Dから御馬家台曲輪を眺める。その向こうには大空堀を挟んで二の曲輪を立体写真。
地点Eからも御馬家台曲輪を眺める。その向こうには大空堀を挟んで二の曲輪。二の曲輪の土塁がそびえる迫力。
地点Fから御馬家台曲輪のパノラマ。御馬家台曲輪の二の曲輪側に土塁がない理由は、御馬家台曲輪が敵に占拠された場合に、二の曲輪側からの攻撃で優位に立つためと現地解説板。
地点Fから御馬家台曲輪と二の曲輪を隔てる大空堀をのぞき込む。
地点Gから御馬家台曲輪と二の曲輪を隔てる大空堀をのぞき込む。大空堀の曲線美。
地点Hから大空堀を挟んで、二の曲輪を眺める。二の曲輪の土塁がそびえる。正面右手には二の曲輪の枡形虎口があり、御馬家台曲輪のこの位置から大空堀を渡るための木橋がかかっていたと現地解説板。
御馬家台曲輪の地点Hから大空堀を挟んだ二の曲輪の眺めを立体写真。

大空堀

御馬家台曲輪と二の曲輪を隔てる大空堀に地点Jで落ちてみる。
地点Jは大空堀から御馬家台曲輪への登り口。道は戦国の城の時代にはもちろん存在しなかったろう。大空堀の奥にそびえるのは御馬家台曲輪の横矢がかりから狙い撃ちされる地点J。
地点Jから地点Kへと大空堀を抜けると城を囲む天然の堀となっていた低地。
地点Iで眺める大空堀。頭上には御馬家台曲輪から二の曲輪の枡形虎口へと渡る木橋がかかっていたと現地解説板。城址公園の入口は地点I。

二の曲輪

地点Iから二の曲輪へと登る。その途中、守谷城を囲む谷津の風景が逆光に美しく見える。
地点Lの枡形虎口を眺める。
地点Lの二の曲輪・枡形虎口から、大空堀を挟んで、御馬家台曲輪の地点Hを望む。地点LとHの間には木橋がかかっていたと現地解説板。
地点Mの櫓台から地点Lの枡形虎口を見下ろす。
地点Mの櫓台から二の曲輪を見下ろすパノラマ。 
二の曲輪の地点Nからは、かつての鬼怒川(現在の小貝川)に通じる谷津の風景。明治迅速測図の時代には古城沼が存在。
二の曲輪の地点Oから、御馬家台曲輪とその間の大空堀を味わう立体写真。
地点Oちかくの横矢がかりから、大空堀の底を狙う。
地点Pの虎口から二の曲輪を眺める。
地点Pは坂道枡形虎口と現地解説板。地点Qから眺める立体写真。 
地点Qから低地に面する帯曲輪を眺める。
二の曲輪に戻り、地点Rから北側を守る土塁の連なりを眺める。

盾形曲輪から船着き場

二の曲輪から盾形曲輪に渡る土橋を地点Sで立体写真。
二の曲輪から盾形曲輪に渡る土橋上の地点Tから空堀をのぞき込む。
二の曲輪から盾形曲輪に渡る土橋上の地点T。横矢がかりから狙われている。
盾形曲輪の地点Uから土橋を眺める。
盾形曲輪の地点Uから本曲輪を眺める。間には空堀。
盾形曲輪と本曲輪の間にある地点Vの空堀の底に落ちる。 曲輪の間は引橋で渡り、堀の底には障子堀りがあったと伝わると現地解説板。
盾形曲輪と本曲輪の間にある空堀から低地へと抜け、地点Wから眺める船着場。埠頭や船溜りの遺構が出土したと現地解説板。低地ぎりぎりの高さの帯曲輪のようなつくり。
船着場とされる地点Wから眺める盾形曲輪と二の曲輪をつなぐ土橋。左からは盾形曲輪の横矢がかりが出っ張る。

本曲輪から妙見曲輪

やっと本曲輪に到達。遺構が豊富に残る守谷城だが、本曲輪は昭和40年代に土取りされ標高が6m低くなったと現地解説板。
本曲輪の土取は沼の干拓のためだったと現地解説板。今昔マップで眺めると確かに1970年代に改変を受けている様子。代わりに、明治時代に沼地で、1960年代も掘り上げ田のようにみえる水田が、1970年代には整然と土地改良。
最奥の妙見曲輪に到着。
妙見曲輪には妙見社が祀られていたと現地解説板。
最奥の妙見曲輪から、かつての鬼怒川(現在の小貝川)へとつながる大きな谷津を眺めるパノラマ。明治時代の沼が干拓によって水田となった谷津・現在は一部、ハス田に変わっており、今でも水気が多いことをうかがわせる。
最奥の妙見曲輪から、城の台地を囲む谷津をクローズアップ。現在は守谷野鳥のみち自然園となり素晴らしい湿地帯の風景があるが、かつては水田。守谷城が存在した時代も人々を支えた水田があったのではないだろうか。


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