見出し画像

久寺家城(千葉県我孫子市)


歴史と立地

「東葛の中世城郭」では、低地を挟んだ台地の上にあり、戦国期には高城氏家臣(あるいは一族)の我孫子氏が拠ったと説がある我孫子城の支城として久寺家城が存在したのではないかと説を挙げる。ただ規模は久寺家城の方が大きく、両者の関係は要検討とある。

周辺が開発される前の地図や空撮を見ると、久寺家集落は、周りを低地に囲まれた狭く細長い舌状台地上に立地し孤立性・防御性の高さが感じられる。台地先端には久寺家城があるが歴史は不明。「我孫子の地名と歴史」では、武士ではなく、村人の城だったのではないかと推定。

久寺家城への道

鷲神社から台地に登り、久寺家集落の表通りに出る。表通りでは歴史を感じさせるくねくね道に旧家が並ぶ。

鷲神社は久寺家集落がある台地斜面の中腹に鎮座。「我孫子の地名と歴史」によると、創建は不明だが、平将門の乱の後、ここに流れ着いた将門家臣の久寺(大炊)左馬之助が創建したとの伝承あり。現在でも大炊の姓を継ぐ方々が集落にお住まい。

久寺家集落の台地の上から我孫子駅方向を眺める。1960年代までは天然の水堀のような水田に囲まれていた久寺家集落。現在は、低地の水田は宅地へと変わり、空撮画像では残された斜面林が舌状台地を縁取っている。

久寺家城址

久寺家集落がある細長い舌状台地の先端にある久寺家城。現在の城址には宝蔵院がある。「我孫子の地名と歴史」によると宝蔵院は江戸時代初期の創建。

「東葛の中世城郭」によると、久寺家城には遺構はほとんど残っていないらしい。わずかに残る遺構の可能性がある斜面の腰郭があるらしいがこれらだろうか?

立体写真
立体写真


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?