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助崎城(千葉県成田市)


歴史

助崎城は千葉氏庶流の大須賀氏の城。「南北朝の動乱と千葉氏」によると大須賀氏は大須賀川周辺に拓かれた大須賀郷を領し、松子城と助崎城を本拠とした。元弘の乱の際には憲宗が当主で本拠は助崎城。千葉貞胤から預けられた藤原師賢を助崎城に近い場所に住まわせたと推定されている。

撮影地点

助崎城は大きかった。撮影したくなった地点をプロット。

V郭

助崎城へは、いくつもの郭が広がる台地を狭窄する地点Aから入る。

地点B。一見分かれ道だが、左は城の中核部への道で、右は乗願寺の参道。

地点Bから地点Aの方向を振り返る。この台地の狭窄部(くびれ)は外郭部(新宿・中宿)との境界と房総の城郭。地点Aの北に行くと城下町があったようだ。

地点B。道の分岐部分には土塁のような高まり。台地の上から城内に入る場合には必ず通らなければならない狭窄部(くびれ)なので、大手口として城門を固めていた土塁だろうか?

立体写真

地点Bには乗願寺。助崎大須賀氏が保護した寺院と房総の城郭。 

地点C。台地の狭窄部から城の中核部へと入る道は台地の縁を通る。房総の城郭によると、台地の縁から落ちる斜面の途中にいくつもの腰郭が描かれている。眺めたところ良く実感は出来ないが、何やら人工的な加工がされた微地形が確かにある。

立体写真

地点D。城の中核へと通じる道には旧家が並ぶ。日本歴史地名大系には1590年に助崎城落城とある。豊臣秀吉の小田原攻めの年。下総の他の城と同様、城主滅亡とともに家臣も帰農し、江戸時代を越えて現在も旧家として助崎で暮らす方々もいるかもしれない。

助崎城の落城伝承

助崎城(千葉県成田市)が落城した際の伝承。城主は小田原におり、助崎城を守るのは姫。薙刀をふるって姫は城を守るものの先に小田原落城。その後、城から姫が落ちのびる際、馬で跳ねて川を越えた。お跳ね川が尾羽根川になったというなりたの昔話。

https://city.narita.chiba.jp/content/000023731.pdf

助崎城落城時の姫の伝承で登場する薙刀。日本歴史地名体系によると、千葉常胤愛用の薙刀で、四男の大須賀胤信に与えられ子孫に継がれる。助崎城落城後に姫が落ちのびた円通寺に奉納。現在でも須賀神社祭礼では薙刀が神輿の前供をするしきたりがあるという。

助崎城(千葉県成田市)の外郭部とされる新宿と中宿の中間に鎮座する神社は須賀神社。以前は天王宮だったと日本歴史地名体系。

助崎城(千葉県成田市)落城時の姫の伝承で登場する薙刀が現在でも須賀神社祭礼で重要な役割を果たしていることを考えると、助崎大須賀氏の一族や家臣が帰農し、それ以降、子孫がこの地で暮らしているのではないかと想像させる。

IV郭

地点Eは旧家並ぶ道のT字路。公共施設らしき建物もあり、内宿集落の中心のようにみえる。 

地点E近くにある盛り上がりは櫓台と「房総の城郭」。

櫓台とその左側の気になるへこみを立体写真 

地点E近くにある櫓台の横の気になるへこみをたどると東側の谷に落ちる。「房総の城郭」に記されている竪堀にへこみはつながっているのではないだろうか? 

竪堀を立体写真

VI郭

地点G。ここより西は台地が再び狭窄。房総の城郭では郭とはされていない狭い台地面。

狭窄部を立体写真

地点Fには櫓台状の盛り上がりと房総の城郭。西の台地狭窄部からの侵入に目を光らしていただろうか?。

櫓台を立体写真 

II郭

地点Eに戻り、主郭方向に向かって、南東に進む。

地点J。遺構かどうかわからないが、III郭を囲む急な斜面。 

立体写真

地点Jから東の谷に下る切通し。切通しは車道を設けるための最近の改変かもしれないが、その上の台地面の起伏は何だろうか?

立体写真

地点JからII郭への登り口。

立体写真

II郭には畑広がる。

尾羽川へ

地点Jから南の谷に下ってみる。

立体写真

地点Kの南に進み、谷の底からII郭の台地の西の斜面に設けられた腰郭を見上げる。

立体写真

地点Kの南に進むと尾羽根川に出る。小さな谷津の中に設けられたII郭の腰郭にはもしかすると尾羽根川に通じる船溜まりの機能があったのだろうか?

地点Lには、恐らく湧水の水たまりが存在し、石祠が置かれていた。

地点LとMの間には台地の斜面と尾羽根川の低地の間に、平坦面がわずかにあり。1947年までの空撮画像を遡る限り、人家が建っていた感じはない。

立体写真

III郭

尾羽根川の低地から助崎城へ登り返して地点U。北東方向を眺めると、III郭。鍛冶作という字名が残り、古文書でも鍛冶作を名乗る人物見えることから、屋敷があったと「房総の城郭」。

I郭

地点O。I郭とII郭を分ける空堀。現在は車道が通っているので拡幅による改変もあるかもしれないが、少なくとも車道を通せると判断できるくらいの深さと幅の空堀があったのだろう。 

空堀を南から立体写真

地点Oの空堀の底からI郭を見上げる。「房総の城郭」によると、この周辺から13世紀の壺が出土したという。奈古谷氏の時代に相当。奈古谷氏は千葉一族さんのページによると大須賀氏庶流のようだ。 http://chibasi.net/osuga1.htm 

立体写真

助崎城の標柱は地点Oに立つ。

地点Oから、いよいよI郭へと登る。

立体写真

地点PにはI郭の虎口と「房総の城郭」。坂虎口の形態としているが、中世城郭の遺構かどうかは不明とのこと。

立体写真

I郭。かつては畑があったようだが現在は貯水槽がある。貯水槽建設の際の発掘調査で掘立柱建物1棟やカワラケが出土と「房総の城郭」。

I郭の南の端の地点Qで土塁と虎口上の切れ込み。 

立体写真

I郭の南の端の地点Q。台地が切れ落ちる斜面の途中には腰郭らしき表現が「房総の城郭」にあり。それらしきものが見えたが?

立体写真

I郭の南東の端の地点Rに到着。「房総の城郭」の記述の通り、妙見像がひっそりとある。 

立体写真

地点Rの東側にはI郭からの深さが10mある空堀、その東側には土塁、その東側で低地へと落ちると「房総の城郭」。このように雄大な土塁と堀が大須賀氏の城の特徴だという。ゾクゾクする遺構だが、藪の向こうの堀と土塁の撮影は困難。

立体写真

I郭を去り際に、地点Pで再び虎口を立体写真。

立体写真

助崎城遠望

低地に下り、助崎城(千葉県成田市)のI郭を地点Tから眺める立体写真。

立体写真

低地を挟んだ台地上の地点Wから助崎城を眺めたパノラマ。

東方の低地から助崎城を眺めたパノラマ。

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