その一瞬のために、生きたっていい
昔の話だよ、と前置きしてからAさんは語りだした。
人もまばらな、夜20時の営業室。
私は夜の営業室が好きだ。
ここではいろんな本音が聞ける。
みんな一戦交えて小休止、といった面持ち。思えば、新人の苦しいとき、この夜の営業室で幾度救われたことか。
俺だって昔はこうだったよ。
今がいちばん苦しい時期だもんな。
家庭もあるのに、よく頑張ってると思うよ。
いろんな言葉が、私を生かしてくれた。
だから、今まだ営業を続けられていると思う。
「昔、作成契約して自ら命を断った同期がいたんだよな」
その日ぽつり、とAさんが話し始めた。
その時部屋にいたのはAさんと、30代の若手Bくんと私。
Aさんはもう定年退職間近で、もう雇用継続はしないと語っていた。
いつも穏やかなAさんは、話が上手いタイプの人ではない。だから、と結論づけたくはないがあまり高い数字を叩き出すタイプではなかった。
だがとても聞き上手で、こちらの警戒をすうっと解いてしまうような雰囲気をもっている。
いつもは誰かの話を笑顔で聞いてばかりで、自ら話題を振るのは珍しいな、と思った。
「作成契約ってなんすか」
Bくんが軽い調子で尋ねる。
Aさんは手元のパソコンからBくんに目線を戻した。
「いわゆる名義借りだよ。お客さまの名前を借りて、自分で金出して成績つくることさ」
ああ、それ。
Bくんは嫌悪感の薄く混じった同情顔で、かるく顎をしゃくった。
「なんでまた、そんなんやったんすか。いくらAさんの時代でも調査がはいったら即懲戒もんでしょ?ちょっと考えたらわかるのに」
最近の金融業界はコンプライアンスがやたら厳しい。昔にはなかったルールがたくさんできて、会社側も職員を守ることよりは「疑わしきをあぶり出す」ほうに熱心だ。
もちろん、悪いことではない。
昔の社風は細かいことは気にせずとにかく数字を作れ、だったらしいし、それはやはり間違っている。
だが、破天荒で悪質なやりかたをするのはいつの時代も一部の人間。その人のせいでルールがあまりにも厳格になり、息苦しくなって他社に出ていく従順なタイプの営業も後をたたない。
「それくらい追い込まれてたんだよ」
Aさんは顔を歪ませた。
Aさんにとっては、この話題はたぶん「昔の話」ではないんだろう。
「そいつは期待されてた。もうすぐあの賞に手が届く。必ずやれ、お前にかかっている、がんばれってみんなから言われてた」
Aさんの声がすこし掠れたのに、私は気づかぬふりをした。
やたらコンプライアンスやパワハラが叫ばれはじめたのは、つい最近だ。
私が入社した頃は、まだ体育会系的な風土は色濃く残っていたから、その言葉がただの励ましで終わらないことも安易に想像がつく。
「どうしてもあと少しを作れずに、やってしまったんだな。あいつは会社をあげて祝福されたよ。社内の広報だって取材に来た。笑ってたよ。いい顔してたんだ。でも…受賞式に出る前日に…気が咎めたのか…自分で。車のなかでさ」
Aさんは静かに言った。
「あとあと、調査がはいったようだけど、当の本人が居ないからさ。懲罰も与えられないし、その件はうやむやになったらしい。もう俺らが最後の関係者だから、だれもそのことを知る人もいなくなる。表向きは本人の精神的な理由が原因、で終わってる話だ」
ぴん、と緊張の糸が見えるようだった。
そうでしたか、とやっと私は小さく言った。
沈黙を破ったのは、Bくんだった。
「だからって、死ぬなんて。Aさんそれを知ってて、何もしなかったんですか。そうさせたのは会社であり、全体の雰囲気でしょう。その人はパワハラの被害者じゃないですか。俺は絶対、会社のために人生おわらせたりしない。会社が何をしてくれるんですか?俺の同期が同じ目にあったら、俺は告発してやりますよ」
AさんはBくんを眩しそうに見た。
「そうだな…俺も、会社のみんなも、そう言ってやれはよかったんだが、そんなこと誰も言えなかったんだ。時代かな。…時代のせいにするのがいちばん駄目なことだけど」
Bくんはまだなにか言いたげに鼻を膨らませていたが、Aさんの携帯が鳴り、その話題はそこまでになった。
あとになって、思った。
きっとAさんはBくんに叱られたかったんだ。
若さゆえのまっすぐな正義感で、自分を否定して欲しかったから、あんなタイミングで言い出したんだろう。
その時の空気、風土、人間関係。
それを知らない人間が、安全なところから指摘するのは簡単だ。
「こうすればよかったのに」の裏には、「そうできなかった」状況があるのだから。
どうやっても賞を取りたい。
頂点に立って、その風景を眺めたい。
周りの羨望の眼差しを浴びたい。
なにを犠牲にしても。
たとえ命を削ってでも。
それは他人が見たら、考えが浅く見えるかもしれない。違う時代の人からは理解できない、刹那的な欲望かもしれない。
私だって、理解することはできない。
だけど。
何に命を燃やすかはそれぞれだ。
その一瞬の刹那のために、生きたっていい。
私は、ただそう思った。
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